福島正則は関ヶ原の戦いで活躍し、幕府創立に大きく貢献した武将です。しかし、幕府は危険な存在と捉えており、大坂の陣へ参加できず、減封、移封の処分を受けます。
晩年は散々な目にあった正則ですが、その子孫はどうなったのでしょうか。
この記事では、江戸時代を生きた福島正則を紹介していきます。
福島正則は大坂の陣へ参戦できなかったが一族は?
関ケ原の戦いにおいて、東軍の一員として活躍した福島正則。
しかし、2度にわたる大坂の陣へはいずれも参戦できませんでした。
福島正則は、もともと豊臣家に近い存在であったためか、幕府からは江戸に留まるよう指示されていました。豊臣秀頼から大坂方へ加わるという要請を断った正則ですが、幕府から見れば、いつ豊臣側に寝返るか分からない存在だったのでしょう。
実際に、正則の一族である福島正守、福島正鎮は大坂方として入城しているので、この幕府の判断は危険を避ける意味で正しかったのかもしれません。その一方で、正則の嫡男である福島忠勝は幕府方として参陣しているものの、正則の弟である福島高晴は大坂城へ兵糧を運んだという理由で改易されています。
もっとも正則自身も、豊臣家が大坂にあった福島家の蔵米を没収する事を黙認するなど、幕府から疑われても仕方がない動きを取ってはいるのですが・・・
大坂の陣は、福島正則が幕府から信頼されていなかった事を感じられる出来事だと感じます。
福島正則の晩年は領主としての業績が光る!?
福島正則の晩年は、幕府から常に難癖をつけられる散々なものでした。
まず、広島城の修繕について武家諸法度違反を言いつけられます。
雨漏りの部分を修繕しただけでしたが、2か月前に届け出をしたにも関わらず、正式な許可をしていないと幕府に難癖を付けられます。
正則は謝罪し、幕府から本丸以外の修築分を破却するよう言われますが、本丸の修築分だけしか破却しなかったために、咎められてしまいます。また、江戸への人質である忠勝の出発を遅らせた時にも幕府へ反発した事から、徳川秀忠によって領地の安芸・備後を没収されることに…
※参照:徳川秀忠の将軍としての業績は?やったことを5つ解説!
その後、福島正則は4万5,000石の高井野藩に移封を命じられます。この高井野はかつて川中島の戦いが行われた場所であり、正則はこの地で検知や新田開発、治水などに功績を挙げています。
しかし、正則は1624年に亡くなるのですが、彼の遺体は幕府の検視役のチェックが入る前に家臣が火葬したため、これが法令違反だとして福島家は高井野をも没収されてしまいます。
ちなみに正則と言えば猪武者のイメージが強いですが、広島藩主時代も石高を増加させるなど、領主としては優秀な人物だったと言われています。幕府が彼を行政面において重用していたら、今日まで残る実績を上げていたのではないかと感じます。
※参照:賤ヶ岳の七本槍のメンバーまとめ!その後大名になれた者は?
福島正則の子孫はどうなったのか?
福島正則の死後、その子孫はどうなったのでしょうか。
正則の死後、末子である福島正利が幕府から旗本に任命されているのですが、正利には子供がいなかったので福島家は一時期断絶してしまいます。その後、正則の嫡男で1620年に亡くなった福島忠勝の孫にあたる福島正勝がこちらも旗本になり、福島家は再興されました。
その後の福島正則の子孫は旗本として幕府に仕えたようで、福島正視、正森、正韶、正聖といった名前が「寛政重修諸家譜」という資料に残っています。また「尾張群書系図部集」という資料には、正韶の子供である正敷という人物の記載が見られ、その子孫の名前が掲載されています。
これ以外には、ネットでは福島正則の子孫を名乗る方が岡山県に多くおられるという情報もありました。ただ、福島正則の子孫の方が現在も本当におられるかなどは、詳しくは分かってはいないようですね。
この記事のまとめ
福島正則の大坂の陣における行動や、その晩年や子孫の動向についてご紹介しました。
福島正則は豊臣家に近い存在であったので、幕府は大坂の陣に参戦させず、最終的には改易に追い込むなど彼を警戒していたと思われます。ただ、晩年の正則は高井野藩主として業績を残しており、領主としても優秀であった事を示しています。
福島家は、嫡男が早世し弟も改易されるなど散々な面に合いましたが、子孫は旗本として江戸幕府に仕えたと言われています。猪武者としてのイメージが強い正則ですが、こうした行政面での業績も注目されて欲しいですね。
なお、以下の記事では正則の親友でもある加藤清正の子孫について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。
※参照:加藤清正の子孫は現代もいる?墓が山形にある理由について!