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2016年に歴史学者の呉座勇一さんが著書『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』を出版された事で、一時期ブームになった応仁の乱。
この戦いの主役の1人が、西軍の大将をつとめた山名宗全です。

応仁の乱で対決した細川勝元とは正反対のタイプだった宗全。具体的にはどんな人だったのでしょうか。家紋や子孫にも触れながら、山名宗全について詳しくご紹介します。

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山名宗全ってどんな人?細川勝元との違いは?


まずは山名宗全がどんな人だったのか、簡単にご紹介します。

山名宗全は1404年に、山名時熙(ときひろ)の三男として産まれました。本名は持豊(もちとよ)と言い、宗全とは1457年以降に出家してから名乗った法号です。長兄が早世、次兄が廃嫡されたため山名家の家督を次ぐ事になり、但馬や備後などの4カ国の守護に就任します。

1441年に仕えていた6代将軍足利義教が「嘉吉の乱」にころされた際は、その実行者である播磨守護の赤松満祐を討伐する手柄をあげ、この時の手柄により播磨守護にも就任。また自分の養女を細川勝元や大内教弘に嫁がせ、幕政に対する影響力を強める事にも成功しています。

もともと協力関係にあった宗全と細川勝元。宗全が足利義政と対立し、1454年に討伐の対象となった際は勝元が宗全を取り成しています。しかし将軍家や有力守護大名の家督争いなど様々な要因を経て宗全と勝元は対立。これが1467年の応仁の乱へと繋がっていきます。

宗全は「赤入道」と呼ばれるほど顔が赤く、また本人も崇拝していた「毘沙門天の化身」と呼ばれる事もありました。人柄としては武人・親分肌であったようで、政治家かつ文化人タイプの勝元とは正反対だと指摘される事もあります。戦に強い事から配下からの人気は高かったものの、傲慢な点から敵を作りやすいタイプでした。

しかしそんな剛毅な人柄も、応仁の乱が進むにつれ鳴りを潜めていきます。中風を患い、和平を望み、そして切腹未遂を起こすなど、60代後半になって気力も弱くなったのかもしれません。66歳の頃には自ら刀を取って敵と闘った逸話もある宗全ですが、1473年には70歳でなくなりました。その2ヶ月後にはライバルの細川勝元もなくなり、翌年にはそれぞれの後継者によって山名家と細川家の和睦が実現しています。

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山名宗全の家紋「五七桐七葉根笹」「糸輪二ツ引両」とは?


そんな山名宗全の家紋がこちら。

貼り付けた画像_2017_05_06_11_20 ※参照:山名氏


この家紋は「五七桐七葉根笹(ごしちのきりななはねささ)」と言います。上の桐紋はもともとは天皇家が使っていた家紋で、その後は足利家や豊臣家など力を持つ武家が使うようになります。そして足利家も有力な家来に桐紋の使用を許可するようになった事が、山名宗全がこの家紋を使用する背景として考えられています。

※参照:豊臣秀吉の家紋の意味は?政府が使っている理由について!

では、この桐紋の下に2つの七葉根笹の紋があるのは何故なのでしょうか。後世に伝わる理由は2つあり、まず1391年に勃発した「明徳の乱」の際に、一族同士で争ったため誰が敵なのかの区別が付けにくかった事から、たまたま川に流れていた笹の葉を見つけて目印として扱ったというもの。そしてもう1つは、義満からプレゼントされた笹造り太刀を由来とするものというものです。いずれにせよ、山名家の家紋に笹が付いているのは足利義満が関係しているものだと言えるでしょう。

また、山名宗全は「五七桐七葉根笹」以外にも「糸輪二ツ引両(いとわふたつひきりょう)」という家紋を用いていたと言われています。

貼り付けた画像_2017_05_06_11_16 ※参照:武家家伝_山名氏


もともと山名家は、以下の「三つ引両」という家紋を用いていました。

貼り付けた画像_2017_05_06_11_22 ※参照:引両紋


しかし、鎌倉時代の名門である三浦家の家紋と似ているという点や、「三」が”散々”と読めるという点で悪く捉えてしまうという事情から「糸輪二ツ引両」に改めるよう足利義満に言われた説が残されています。山名宗全の家紋には、かつて明徳の乱で自分たちを苦しめた足利義満の姿が欠かせない存在になっていると言えるでしょう。

※参照:足利義満が金閣寺を建てた理由やその後の歴史。頂上の鳳凰とは?

山名宗全の子孫は民社党の結成に尽力した!?


最後に、山名宗全の子孫がどうなったのかを見てみましょう。山名宗全の跡を継いだのは、彼の孫(4男とも)にあたる山名政豊(まさとよ)でした。これは宗全の嫡男である山名教豊が応仁の乱の勃発した1467年に44歳でなくなった為です。しかし政豊の時代から、山名家の力は播磨の赤松家の攻勢や領国の国人衆の反乱によって急速に衰えていく事になります。

山名家の衰退を押しとどめるべく戦国時代に登場するのが、宗全の玄孫にあたる山名祐豊(すけとよ)です。但馬守護であった祐豊は、因幡守護を務めていた一族の山名誠通を討伐。また有力な国人を討伐する事で山名家を戦国大名へと脱皮させる事に成功します。しかし、晩年の祐豊は実子に先立たれ気力を失い、1580年には中国征伐時の羽柴秀吉に攻められ降伏。一族の命は助かるものの、戦国大名である山名家はここに滅亡します。

その後の山名家は紆余曲折を経て、祐豊の甥にあたる山名豊国(とよくに)が江戸幕府の旗本として江戸時代を通して存続。明治時代には男爵に列せられており、この系統から産まれた宗全の子孫としては民社党の結成に尽力した山名義鶴(よしつる)が知られています。
また、祐豊の3男にあたる山名堯熙の子供・堯政は大阪夏の陣で豊臣方として戦い戦死したものの、堯熙の孫・煕政は江戸幕府の旗本・清水氏の養子となり、清水恒豊(つねとよ)と名乗っています。恒豊の系統は、以後も旗本として存続しました。

こうした点から、宗全の子孫は日本各地に今なお多く顕在と言えるのではないかと思います。

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この記事のまとめ


山名宗全がどんな人だったのかを、家紋や子孫の有無も含めご紹介しました。

宗全は武人肌、親分肌タイプで、政治家で文化人でもあった細川勝元とは正反対の気質でした。また宗全の家紋は「五七桐七葉根笹」と「糸輪二ツ引両」の2つで、共に足利義満に関係あるものだと言われています。

宗全の跡を継いだのは、孫にあたる山名政豊でした。宗全の後の山名家は衰退の一途を辿るものの、彼の子孫にあたる方は今なお日本全国にいらっしゃいます。

なお、以下の記事では宗全と細川勝元の関係について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:細川勝元ってどんな人物?山名宗全との関係や子孫の有無は?