%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2016_10_28_8_41

江戸幕府の創設者、徳川家康には多くの側室がいました。

しかし、正室である瀬名姫(築山殿)に関しては、江戸時代になるすいぶんと前に亡くなっているので、その死についても謎が多く残されているのです。

瀬名姫(築山殿)とは一体どんな人だったのでしょうか。

家康との仲や、井伊家との関係についても見て行きましょう!
スポンサードリンク

瀬名姫(築山殿)ってどんな人?


まずは瀬名姫(築山殿)はどんな人だったのかを、簡単にご紹介します。

瀬名姫(築山殿)は1542年頃に、今川氏の重臣である関口親永(せきぐちちかなが)という武将の娘として生まれました。関口親永はもともと瀬名義広(せなよしひろ)という名前だったのですが、一族の関口家の家督を継ぐために姓名を改めたそうです。「瀬名姫」という名前も、関口親永の元々の名字が由来になっていると思われます。

1557年、瀬名姫(築山殿)は徳川家康(当時は松平元信と名乗っていました)と結婚します。
2人の間には嫡男となる松平信康と長女の亀姫の二児が産まれていますが、桶狭間の戦いを機に、夫が織田信長と手を結んだ事から彼女の人生は変わっていきます。

まず、家康と信長の同盟に激怒した今川氏真によって、瀬名姫(築山殿)の父親の関口親永が自害に追い込まれます。また彼女は徳川家康の母である於大の方とも仲が良くはなかったようで、岡崎城外での生活を強いられていました。
この状態は、嫡男の松平信康が織田信長の長女、徳姫と1567年に結婚してからも続き、その3年後にようやく岡崎城への入城を許されたと言われています。

そして1579年、瀬名姫(築山殿)は家康の命令によって殺害されます。その原因は、武田家との内通や家康と信康の親子間の対立など諸説あり明確な原因は分かっていません。
また、減敬(げんきょう)という医師と密通していたという説も存在し、幾つかの小説で様々な描き方をされています。

スポンサードリンク

瀬名姫(築山殿)と徳川家康との仲はどんな感じだったの?


瀬名姫(築山殿)の最後は、徳川家康の命による殺害というもの。
そのため、二人の夫婦仲は悪かったのではないかと思いますよね。

実際の所はどうだったのでしょうか。

瀬名姫(築山殿)は家康と結婚した2年後に松平信康を、その1年後に亀姫を出産しています。この事を考えると、2人の仲は始めから悪かったとは言えないでしょう。

しかし、その後の岡崎城外での生活が1570年まで続いた事、そしてこの年から家康が浜松城へ居城を移している事を考えると、桶狭間の戦い以降の夫婦間のコミュニケーションみたいなものはほぼ無かったのではないかと思わざるを得ません。

また、江戸時代初期に記された「当代記」という資料によると、築山殿は夫が今川家を裏切った事で父親が責任を負わされて腹を切った事を強く恨んでいたとされています。この資料の信憑性は疑問が残る点もあるのですが、少なくとも家康が今川家を裏切らなければ、2人の仲が悪化するような事はなかったという推測は大いに考えられると思います。

瀬名姫(築山殿)と井伊家の意外な関係とは?


2017年大河ドラマ「おんな城主直虎」では、瀬名姫(築山殿)は主人公の井伊直虎の友人という立ち位置で描かれるそうですが、実は瀬名姫(築山殿)と井伊家の間には、意外な関係があるのをご存知ですか?

瀬名姫(築山殿)の母親は、今川義元の妹だと言われているのですが、実は井伊直虎の曽祖父、井伊直平の娘にあたる女性だと言われています。井伊家についての事柄を記した井伊年譜という資料に、瀬名姫の母が井伊家出身であり、今川家の養子となってから関口家に嫁いだという記述があるのです。

結婚の際の一時的な養子というのは、当時、家柄を合わせる目的などで頻繁に行われていましたので、確かに可能性として十分に考えられます。これが本当であれば、瀬名姫(築山殿)は今川家ではなく、実は井伊家の血を引いているという事になるのです。

スポンサードリンク

今回のまとめ


このページでは、瀬名姫(築山殿)がどんな人だったのかを、夫である徳川家康との仲や井伊家との関係にも触れながらご紹介してきました。

瀬名姫(築山殿)の最後の真相については、家康と嫡男である松平信康との関係が大きな要因を占めている説もあり、明確な事は分かっていません。井伊家との関係も含め、謎に包まれた瀬名姫に関する今後の研究が楽しみですね。

なお、以下の記事では瀬名姫(築山殿)の娘である亀姫について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:徳川家康の5人の娘について。亀姫、督姫、振姫の生涯とは?