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石川数正と言えば、徳川家康が幼少期の頃から側に使え、その後も家康の右腕的な存在として内政、軍事、外交と幅広く徳川家に貢献し続けた武将です。

しかし、小牧長久手の戦いの翌年、突然徳川家から豊臣家へと出奔し、独立大名としての地位を与えられた事でも知られています。


ではなぜ、石川数正は家康のもとを出奔してしまったのでしょうか。


この記事では、石川数正の出奔として考えられる5つの原因をまとめてみました。
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秀吉の魅力や差し出す恩賞に惹かれてしまった


まず考えられるのは、秀吉の魅力や提示する恩賞に数正が取り憑かれ、それが原因で出奔してしまったという説です。

石川数正と秀吉の関係ですが、数正は1582年から家康の命を受けて秀吉との外交を担当しています。また、その2年後の小牧長久手の戦いでも、数正は秀吉との和睦を家康に進言したと言われています。


こうした点を考慮すると、数正が秀吉に持つイメージは悪くはなかったと思われます。むしろ、秀吉との交渉を行うにつれて、彼の魅力に取り付かれたり、あるいは何かしらの恩賞を提示された可能性も否定できません。


そもそもこの秀吉という人物、石川数正や徳川家以外の大名の有力な家臣にも、恩賞などをチラつかせて自分の部下にならないか?という勧誘をよく行っています。

上杉家の直江兼続や伊達家の片倉景綱などはその代表例ですし、また大友家の立花宗茂や龍造寺家の鍋島直茂などは秀吉に主君とは別に所領を安堵されています。


他には、同じ徳川家の家臣である酒井忠次にも官位を与えおり、また隠居料として京都に1000石を与えた事でも知られています。酒井忠次と言えば、晩年には家康から遠ざけられた事でも知られてますが、その原因の1つとして、忠次が秀吉から厚遇を与えられている事を家康が嫌ったという説があるほどです。

これらを踏まえると、石川数正が秀吉のもとに出奔したという事実は、特別珍しくはないのではと感じます。

※参照:酒井忠次と家康の関係やその晩年について。子孫はいるのか?

松平信康事件をきっかけとして家康と不仲になった


続いて考えられるのは、数正が家康の長男・松平信康の後見人を務めていたという事実です。

松平信康は元服後、家康の生誕地でもあった岡崎城の城主を務めていたのですが、その実質的な政務を取り仕切っていたのは、彼の後見人である石川数正でした。実際、信康が1579年に家康から突然切腹を命じられ亡くなった後、数正は岡崎城代を務め、織田家との外交や前線で戦う家康の後方支援を行っています。


松平信康が切腹を命じられた原因は諸説あるのですが、その中の1つに、松平信康や石川数正が城主を務めた岡崎城派と、家康や彼と共に前線で戦う浜松城派の対立抗争があったのではないか、という説があります。

実際、信康の死後、信康や石川数正の周辺にいた徳川家の家臣が次々と罰せられており、また数正自身もこうした家康の姿勢に不満を積もらせ、その蓄積が数正を出奔へと追い込んだのではないかという見方もあります。

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徳川家の中に居場所をなくしてしまった


また、上と少し被るのですが、徳川家中で居場所を無くしてしまった事が、石川数正が出奔した原因なのではないかという説もあります。

その背景として挙げられるのは上記の徳川信康事件、そして家康と共に前線で働く家臣と馬が合わなかった事が挙げられます。


家康の家臣は「三河武士」と呼ばれ、その忠義や武勇、団結力は当時から広く知られていましたが、これは悪い見方をすると融通がきかない面倒な性格だったと言われています。その一方で、石川数正は武勇以上に外交で力を発揮しており、こうした猪武者とはそりが合わない面があったのかもしれません。


他にも、三河武士の団結力を崩すため、秀吉が石川数正が自分と近い関係にある事を徳川家の中で広め、それが原因で数正が徳川家の中に居場所を無くしたのでは?という説もあります。

実は家康も出奔を承知していた?


石川数正の出奔は、実は家康も了解済みだったのではないか、という説もあります。

数正の出奔は、小牧長久手の戦いが終わった翌年の出来事です。一時的に秀吉に勝利したとは言え、このまま戦を続けていては勝ち目はない事は家康も数正も薄々気付いていたと思われます。


その一方で、家康の旧臣である三河武士はあくまで秀吉との徹底抗戦を叫ぶ状態。彼らの声を抑えるため、あえて数正を秀吉のもとに出奔させ、徳川家の機密情報を伝える事で秀吉との戦いをこれ以上避ける目的があったとも考えられます。

実際、石川数正の出奔後、家康は徳川家の軍政を武田家のそれを参考にしたものに改めてますが、こうした軍政改革を行うきっかけを作るために、あえて数正に自家の機密情報を秀吉に伝えるために出奔させたという見方もあります。


山岡荘八の小説など、一部の作品ではこれに近い説が取られている事も有名です。

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石川家における嫡流争いに敗北したため


最後に考えられるのは、数正が叔父の石川家成に石川家の嫡流争いにおいて敗れたためという説です。

実は石川数正の父親は、1563年に勃発した三河一向一揆で家康を裏切っており、これが原因だったのか石川家の家督は数正の叔父である石川家成が継いでいます。
(石川家成が家康の縁戚であったためと言う説もあります)


数正自身は、三河一向一揆で家康を裏切る事はなく、その後も家老として重宝され続けるのですが、石川家の嫡流はあくまで叔父である事に変わりはありませんでした。

徳川家以外の大名、そして当時勢いが最もある豊臣家に仕える事で、自身の家系の正当性を示すために出奔したという見方もあり得なくはありません。


ただし、石川数正の死後、その家系は子供の代で改易されてしまう一方、叔父の家成の家系の方は幕末まで続いています。もしこの説が本当であれば、数正の目論見は上手くいかなかった事になりますね。

この記事のまとめ


石川数正が徳川家を出奔した理由を、5つほど挙げて検証してみました。

個人的な感想としては、秀吉の魅力や恩賞に取り憑かれた×徳川家の中に居場所を無くしてしまった事が最も自然な成り行きだと思います。松平信康関連も有り得そうですが、石川家の嫡流争いについてはちょっと考えすぎかなとも感じました。


家康と事前に示し合わせた上の謀反というのは、フィクションとしては面白いと思いますね。


それでは最後までお読みいただき、ありがとうございました!