%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2016_12_01_17_43 日本の歴史の中には、武士が700年も政治を行っていた時期があります。そして、こうした政治を行う武士を説明する上で欠かせないのが、今から800年以上前に出来た鎌倉幕府(かまくらばくふ)です。

鎌倉幕府とは、一体どんな政権だったのでしょうか。

年表や滅亡した原因にも触れながら、小学生の方向けに簡単に解説します。

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鎌倉幕府を小学生向けに簡単に解説!


まずは鎌倉幕府ばどのようなものだったのか、小学生の方にもわかるように簡単に解説します。

鎌倉幕府は1185年(以前は1192年だと言われていました)に、源頼朝が鎌倉(今の神奈川県)ではじめた武士の政権です。頼朝は1185年に平氏を滅ぼして、自分の領地に守護、地頭を置いてその支配を朝廷から認めてもらいました。
そして1192年、頼朝は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命される事になります。

※参照:平清盛と源頼朝の違いや性格を比較。もしも戦いがあったら?

ですが、1199年に頼朝がなくなり、頼朝の二人の息子が将軍を継ぎましたが、両者ともに若くして殺されてしまいます。そこで権力を握ったのが、頼朝の妻の北条政子(ほうじょうまさこ)とその実家の北条氏でした。北条氏は自分と対立した有力な御家人(ごけにん)も滅ぼし、幕府の事実上のトップである執権(しっけん)になって鎌倉幕府の政治を握りました。

頼朝の直系が途絶えたことで、京都の後鳥羽上皇がこの期を狙い、1221年に幕府を討つようにと挙兵しました。いわゆる承久の乱(じょうきゅうのらん)です。朝廷から敵にされた幕府と幕府に従う武士は動揺しますが、政子の涙ながらの大演説に心を動かされた武士たちは、上皇の軍と戦って勝利し、後鳥羽上皇と上皇の息子はそれぞれ流され、朝廷より上の力を持つことで、鎌倉幕府とその権力者である北条氏の力は強まりました。

それから50年ぐらい経ち、1269年に元(現在の中国)の皇帝のクビライは、日本に貢物をよこせと言う書状を送りますが、執権の北条時宗(ときむね)は、これを2度にわたって無視し、クビライは二度にわたって博多湾を攻めてきました。元軍の戦法と、「てつはう」と言う火薬を使った武器により御家人と西国の武士は苦戦しますが、いずれもなんとか元軍を撤退させました。

鎌倉幕府の成立が武士の力を、存分に発揮できた時代と言えますよね。

鎌倉幕府の仕組みを小学生向けに簡単に解説!


それでは、鎌倉幕府の仕組みはどのようなものだったのでしょうか。
小学生の方にもわかるように簡単にご紹介します。


まず、鎌倉幕府には以下の役職がありました。


・将軍:鎌倉幕府のトップ、実際はお飾りだった
・執権(しっけん):将軍の補佐を行う、鎌倉幕府の事実上のトップ


・連署(連署):執権の補佐を行う
・評定衆(ひょうじょうしゅう):政策の決める役職、後に寄合衆に取って代わられた
・寄合衆(よりあいしゅう):北条氏の家臣の集まりだが、後に評定衆の役割を行うように
・引付衆(ひきつけしゅう):裁判を行う


・政所(まんどころ):政治を行う
・侍所(さむらいどころ):軍事・警察を管理する
・問注所(もんちゅうじょ):御家人の訴訟(そしょう)を取り扱う


・六波羅探題(ろくはらたんだい):京都で、貴族と西国の武士を監視する

・守護(しゅご):任命された国の御家人のチェックや、その土地の軍事を管理する
・地頭(じとう):任命された国の管理や税金の取り立て、犯罪の取り締まりを行う


・鎮西奉行(ちんせいぶぎょう):九州地方の御家人のトップ
・奥州総奉行(おうしゅうそうぶぎょう):東北地方の御家人のトップ
・蝦夷代官(えぞだいかん):北海道(蝦夷地方)の管理を行う



何だかとてもしっかりしてる感じが出てますよね。鎌倉幕府がしっかりとした武家政治なのは、3代目の執権の北条泰時(やすとき)が頼朝以来の先例を元にした御成敗式目(ごせいばいしきもく)法令を作ったことです。これには武士のあるべき法律や相続(そうぞく)など、当時までわかりにくかった武士のための法律が制定されました。

そして重要なのは、御恩(ごおん)と奉公(ほうこう)の関係です。幕府は御家人や武士に土地(とち)などを与えるのが「御恩」で、その代わり御家人が幕府に精一杯力を尽くすことが「奉公」です。中には、土地を失った貧しい武士が奉公のために鎌倉へ駆けつけ、恩賞(おんしょう)として3つの土地をもらったと言う作り話があるほどです。

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幕府に対する忠誠心は、これらの仕組みによって形作られましたが、それが、逆に鎌倉幕府を滅亡へと追い込んでいく事にもなっていくのです。

それがどういうことなのかは、次の項目で解説します。

小学生にもわかる!鎌倉幕府は滅亡の原因とは?


最後に、鎌倉幕府の滅亡の原因についても簡単に見ていきましょう。

その理由は、元軍が攻めてきた事にさかのぼります。この時幕府は膨大な戦費を使ったので、十分な恩賞が御家人に与えなくなり、御家人は借金まみれになって行きます。そこで幕府は、徳政令(とくせいれい)を出して、御家人の借金を帳消しにしますが、しかし、逆に商人が御家人にお金を貸さなくなるようになり、御家人は貧しさと幕府への不満が強くなってきました。

この時立ち上がったのが後醍醐天皇(ごだいごてんのう)です。幕府を討とうと計画した後醍醐天皇ですが、2度もばれて隠岐(今の島根県の北にある島)に流されてしまいます。しかし、これを契機に楠木正成(くすのきまさしげ)などの鎌倉幕府に不満を持つ武士が立ち上がり、幕府を討つようにと挙兵しました。

この武士の反乱を鎮圧するために、幕府は有力な御家人の足利尊氏(あしかがたかうじ)や新田義貞(にったよしさだ)を向かわせるのですが、この2人も後醍醐天皇側についてしまいます。足利尊氏は六波羅探題を、そして新田義貞は鎌倉を攻め、追い込まれた執権の北条高時は(たかとき)は、鎌倉にある東勝寺で自害。こうして鎌倉幕府は滅亡しました。

朝廷の執念と御家人や武士の不満が鎌倉幕府を滅亡に追い込んだことがわかると思います。
その後も武士たちの不満のことで、安定しなかったりするのですが、部下と恩賞はいかに大事だっていうことですよね。

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この記事のまとめ


このページでは鎌倉幕府のことをその成立から、仕組みや滅亡の原因まで、小学生向けに簡単にご紹介しました。

わずか148年しか続かなかった鎌倉幕府ですが、その仕組は後の武士の政権に大きな影響を与えました。
ちなみに、鎌倉幕府が成立した年号は、現在は1185年と教科書に書いていますが、昔は1192年と教科書に書いていました。これも研究がいかに進んだかを物語っていますが、昔の参考書では1192年が多いです。

なお、以下の記事では鎌倉幕府をつくった源頼朝について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:源頼朝のプロフィールや年表を小学生向けにわかりやすく解説