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徳川家康の息子である、江戸幕府の第二代将軍、徳川秀忠。

彼の妻である江の存在は大河ドラマでも取り上げられ、とても有名です。


しかし、徳川秀忠が生きた戦国時代後期から江戸時代初期には、多くの武将や大名が複数の女性を妻に迎えていました。


秀忠にも側室はいたのでしょうか?


この記事では、「徳川秀忠の妻」というテーマで、妻である江との仲や、側室の存在などを解説してきたいと思います。
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徳川秀忠は恐妻家? 江の夫婦仲はどうだったの?


徳川秀忠と江の夫婦仲について、秀忠の頭が上がらないほどの恐妻家ぶりだったと言われることが多いようです。

これは、江が秀忠よりも6歳年上であったことに加え、織田信長の姪であり豊臣秀吉の養女という立場だったことに由来していると思われます。


秀忠は律儀な性格であったため、目上の立場にある江に頭が上がらなかったのでしょう。


一部では、江が嫉妬深い性格だったため秀忠は頭が上がらなかったとも言われています。

しかし、江が嫉妬深い性格と書かれた史料は確かにあるものの、その信憑性は高いと言いきれず、真実は謎のままです。


個人的にはこの2人の夫婦仲はかなり良好だったと考えています。江は秀忠より先に亡くなっているのですが、その死後、秀忠は継室を迎える事も行っていません。

また、2人の間には七人の子供が産まれている事も、徳川秀忠と江の夫婦仲が良好だった事を示すエピソードと言えるのではないでしょうか。

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徳川秀忠の「もう一人の正室」小姫とは?


徳川秀忠は江との婚礼が初婚だったとよく言われているため、「もう一人の正室」と言うと不思議に思われるかもしれません。


実は江が嫁してくる以前に、秀忠には縁組をした女性がいたのです。


「もう一人の正室」の名は小姫。織田信長の次男、信雄の娘で、彼女もまた豊臣秀吉の養女でした。

この結婚は、小姫の年齢が当時6歳であったことからも明らかに政略結婚と分かります。


しかし、この2人の婚姻は行われる事はありませんでした。小姫の実父である織田信雄と、養父の豊臣秀吉の関係がこじれたことで、婚礼の儀の前に離縁することになった為です。


その後、まもなくして、彼女は7歳で亡くなったとされています。

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徳川秀忠に側室はいたのか?


徳川秀忠の時代は、正室に加え複数の側室を持つ大名、武将がほとんどでした。

しかし、秀忠には側室と言われる人が一人もいません。

当時としては珍しいと思われる秀忠の女性関係ですが、これには一つの秘密がありました。

実は、「正式な」側室がいないというだけで、江以外に秀忠の子供を江戸城の外で産んだ女性が一人いたのです。

その女性は、あの有名な大奥の下級女中である静という女性です。


当時、側室を迎えるには正室の許可や出自を整える必要があったのですが、静はその手続きが行われておらず、正式に側室になれなかったのです。

静が正式な側室になれなかった経緯も謎が多いのですが、そこには江を立てた秀忠の律儀な性格が現れているのではないかと私は思います。


その後、生まれた子供は保科家の養子として育てられ、後の会津藩主、保科正之となります。

保科正之は会津藩主として産業の振興に尽力しただけでなく、三代将軍の家光や四代将軍の家綱に、優秀な補佐として仕えた事でも知られています。

※参照:徳川秀忠ってどんな人?能力や性格まとめ!

この記事のまとめ


徳川秀忠の妻についてご紹介しました。

この時代には珍しく、徳川秀忠には側室を「ほぼ」迎えていません。その背景にあったのは江との深い夫婦仲ゆえか、それとも江の嫉妬深さか…あなたはどのように思われますか?

また、秀忠が小姫とそのまま夫婦になっていたら、3大将軍となる徳川家光も産まれない事になるので、その後の江戸時代の展開も大いに変わっていたかもしれませんね。


なお、以下の記事ではその徳川家光の年表について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さい。

※参照:徳川家光ってどんな人?年表や島原の乱を小学生向けに解説!