貼り付けた画像_2016_07_31_13_34


戦国時代に人々の間で流行し、少なくない数の大名の信仰も集めたキリスト教ですが、豊臣秀吉による「バテレン追放令」をきっかけとして、少しずつ弾圧が始まっていきます。


そもそもバテレン追放令が出された理由は何だったのでしょうか。また、追放令は不徹底だと言われているのですが、それは何故なのでしょうか。


よく似た言葉である「禁教令」との違いを含め、バテレン追放令についてご紹介します。
スポンサードリンク

バテレン追放令が出された理由とは?


そもそもバテレン追放令は、一体なぜ出されたのでしょうか。
まずはバテレン追放令の概要について、簡単にご紹介します。

バテレン追放令とは1587年に、豊臣秀吉によって出された2つの文章のことを指します。1つ目は1587年6月18日付の「11か条の覚書」で、もうひとつは翌日19日の「五か条の文書」です。


この2つの文章をまとめると、以下の内容になります。


・宣教師の国外追放と布教の禁止
・大名のキリスト教信仰は禁止
・一般の武士や庶民の信仰は自由
・貿易のためにポルトガルやスペインの商人が出入国するのは認める


スポンサードリンク


バテレン追放令が出された理由ですが、諸説あるものの最も大きな理由はキリスト教の拡大を秀吉が怖れたためだと言われています。
秀吉はキリスト教の信徒の多くが身分の低い者であり、彼らがかつて盛んに起こった一向一揆と同じように蜂起する事を恐れたため、バテレン追放令が出されたと言われています。


また、当時のキリシタン大名の中には領国内の民衆を無理にキリスト教に改宗させたり、神社や寺を破壊する者も少なくありませんでした。特に長崎の大村純忠は貿易を盛んにするために寂しい漁村だった長崎を発展させ、この地をイエズス会に寄進しています。

他にも、純忠はキリスト教への改宗を拒絶した者を奴隷として海外に売り飛ばす事を行っており、これらの行いが「ポルトガルやスペインが日本を植民地化するのでは」という懸念を秀吉に覚えさせた事が、バテレン追放令が出された原因とも考えられています。

なお、バテレン追放令を出した直後、秀吉は長崎を取り戻して直轄地にしています。

バテレン追放令が不徹底だった理由とは?


しかし、秀吉が出したバテレン追放令は不徹底だったと言われています。
その理由は一体なぜなのでしょうか。

これについては、秀吉が一般庶民のキリスト教への信者を禁止しなかった事や、貿易を行うヨーロッパ商人の動きに制限を付けなかった事が挙げられます。
当時、日本と貿易をしていたのはおもにカトリックの国であるスペインとポルトガルですが、カトリックは布教と貿易がセットになっているので、商人であり宣教師でもある者が日本にいることを黙認せざるを得なかったのです。

なので、キリスト教の宣教師たちは引き続き、日本で布教活動を行う事が出来たのです。
また、この追放令によって信者たちが処刑される事はなかった事も、この文書が不徹底だった理由と考えられます。

しかし1596年のサン・フェリペ号事件をきっかけに、二十六聖人と呼ばれる信徒を処刑するなど、秀吉はキリスト教に対する弾圧を強めました。ただこの時も一般庶民に対する迫害は行われないなど、キリスト教に対する弾圧は「不徹底」と言えるものでした。

スポンサードリンク

バテレン追放令と禁教令の違いとは?


バテレン追放令によく似た言葉として「禁教令」というものがありますが、この2つは一体何が異なるのでしょうか。

そもそも禁教令とは、キリスト教に限らずある特定の宗教を禁止する事を指します。イメージとしては、禁教令という大きな枠組みの中にバテレン追放令があるという感じですね。

ただ一般的に禁教令と言うと、キリスト教に対する言葉、特に1612年と1613年に江戸幕府が行った施策を指す傾向にあります。これは江戸幕府が行った最初の禁教令、いわゆるバテレン追放令であり、前者が江戸幕府直轄領、そして後者が日本全国に対するものでした。

これによってキリスト教の布教は禁止され、宣教師や高山右近など国内の信者がマニラなど国外へ追放されました。この年の禁教令では信者の処刑は行われませんでしたが、1622年の元和の大殉教、そして1637年に長崎で勃発した島原の乱をきっかけに行われたキリストの絵を踏ませる「踏絵」など、キリスト教を信仰する庶民に対する弾圧も徐々に厳しくなっていきました。

※参照:天草四郎ってどんな人?年表や島原の乱をわかりやすく解説!

この記事のまとめ


バテレン追放令が出された理由や不徹底とされる根拠、禁教令との違いについてわかりやすくご紹介しました。

戦国時代や江戸時代初期に大流行したキリスト教ですが、幕府による度重なる弾圧によって信徒の多くが仏教などへ改宗しています。ただし一部の信徒は隠れキリシタンとして信仰を守り、キリスト教の教えを口伝によって子孫へと伝え続けました。キリスト教の信仰が許可されるのは明治時代に入った1873年で、その後多くの修道士たちが来日して布教活動を行う事になります。


なお、以下の記事ではキリスト教に対する戦国武将の3つの反応について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:戦国時代におけるキリスト教の布教活動や信者数、武将の反応について