鎌倉幕府初期で、執権の北条氏に継いで影響力があったと言われる大江広元
その子供たちも記録が比較的残っており、それぞれが自身の家を興しています。

この記事では、大江広元の子供たちをわかりやすくご紹介します。
戦国武将・毛利元就との関係についても見ていきましょう!

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大江広元の子供たちを一覧でまとめてみた


大江広元の子供には6人の男子と1人の猶子、そして3人の女子がいた事がわかっています。
名前を挙げると以下のようなります。

嫡男・大江親広
次男・長井時広
三男・那波宗元(大江政広)
四男・毛利季光
五男・海東忠成
六男・尊俊(園城寺の別当)
猶子・水谷重清
娘(飛鳥井雅経の妻)
娘(中原師業の妻?)
娘(藤原公国の妻)

3名いた女子に関しては、この時代の女性は名前が伝わってないので「○○の妻」としか伝わってないですね…。

四男の毛利季光については、戦国武将・毛利元就の祖先として有名だったりします。

以下では、比較的記録が残っている嫡男から五男までの男子がどのように活躍したのか、わかりやすくご紹介します。

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承久の乱で父と戦った嫡男・大江親広


大江広元の嫡男にあたる大江親広(ちかひろ)ですが、1221年の承久の乱では父・広元と異なり、朝廷側に味方したことで知られています。
その背景としては、親広は公家の源通親(みなもと の みちちか)の猶子になっており、そのため武家より朝廷の方にシンパシーが強かったからではと言われてます。また、乱の2年前の1219年に京都守護に任じられた点も見逃せないところです。

承久の乱が終わった後は、母(広元の妻)の父親である多田仁綱が目代を務める出羽国に隠棲したと伝わっています。父や弟たち、そして親広の息子である大江佐房(すけふさ)が幕府側で活躍した事もあり、厳しい追求を受ける事まではなかったようです。

大江家の惣領となった次男・長井時広


広元の次男で、嫡男の親広にかわって大江家の惣領(跡継ぎ)となったのが長井時広(ながい ときひろ)という人物です。
出羽国の長井荘という所が領土だったため、嫡男の長井泰秀の系統は「長井氏」として続いていく事となります。
また、出羽国に加え備後国の守護も務めており、こちらは次男の長井泰重の系統が領有していく事となりました。

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没落した家を継承した三男・那波宗元(大江政広)


広元の三男は那波宗元という人物です。那波氏を称する前は「大江政広」と名乗っていました。

もともと那波氏は上野国那波郡(現在の群馬県伊勢崎市など)を治めていた一族でしたが、源頼朝と木曽義仲の戦いで義仲側につき没落。その後、この地は広元が領有する事となり、自身の三男にあたる政広に那波氏を継承させたと言われています。

毛利元就の祖先として知られる四男・毛利季光


広元の四男である毛利季光(もうり すえみつ)は、戦国大名・毛利元就の祖先として語られる事が多い人物です。
「毛利」を名乗った背景としては、広元の領地であった相模国毛利荘(現在の神奈川県厚木市)を相続した為だと言われています。

季光は承久の乱で武名をあげますが、妻の実家が三浦氏だったため、北条氏と三浦氏が戦った宝治合戦では三浦氏側につき、息子たちと共に自害してしまいます。しかし、四男の毛利経光が唯一生き残り、この家系が後の毛利元就へと繋がっていくのです。

※参照:宮騒動、宝治合戦、霜月騒動の違いをわかりやすく解説!

熱田神宮の大宮司にもなった5男・海東忠成


広元の5男にあたるのが海東忠成(かいとう ただしげ)という人物です。
「海東」姓を名乗った背景としては、尾張国海東荘(現在の愛知県あま市)を領した為と言われています。
1208年には、織田信長が桶狭間の戦いの前に訪れたとされる熱田神宮の大宮司になった事でも知られています。
その後は鎌倉幕府の政務に携わるものの、兄の毛利季光が自害したことで失脚。
殺されはしませんでしたが、1265年に京都で没した事が伝わっています。

※参照:桶狭間の戦いを簡単に説明。信長の勝因や徳川家康の動向は?

まとめ


大江広元の子供たちについてご紹介しました。

広元には6人の男子と1人の猶子、そして3人の女子がいます。
男子のうち5名は自身の家を興し、各地で活躍しました。

その子孫の中には室町時代や戦国時代で活躍する者も少なくなく、一部は毛利元就や長州藩などを経て、現在に至るまで続いています。