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豊臣秀吉子飼い大名の中で圧倒的な人気を誇る加藤清正

清正と言えば熊本城をはじめとする築城の名手であったり、賤ヶ岳の戦いで功名を挙げ「賤ヶ岳七本槍」に数えられたことなどで広く知られていますよね。


ですが、清正を語るにはやはり朝鮮出兵での活躍が外せません。


そこで今回は文禄の役と慶長の役に分けて清正の活躍を見ていきましょう!

また、朝鮮出兵にまつわる清正のエピソードも合わせてご紹介します。
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文禄の役における加藤清正の活躍について解説!


1592年、加藤清正は秀吉の命によって、朝鮮外征へと歩みを進めます。

この文禄の役で清正は第二軍の主将として出陣し、鍋島直茂・相良頼房などを傘下に置き2万2800の兵を率いて釜山に上陸し慶州城(朝鮮半島の南東部分)を攻略します。

その後、同じく先鋒の小西行長率いる第一軍と、李氏朝鮮の首都である漢城(現在のソウル)の攻略を競い、これを落とす事に成功します。快進撃を続ける清正は第三軍の黒田長政と共に北上し、和平交渉で決裂した朝鮮軍と臨津江の戦い(りんしんこうのたたかい)で圧倒的な力を見せつけた清正がこれを全滅させました。

また、続く海汀倉の戦い(かいていそうのたたかい)でも清正率いる第二軍は圧勝し、朝鮮八道の1つである咸鏡道(かんきょうどう、朝鮮半島の北東部分)を平定したのち朝鮮の王子を2人も捕虜にする手柄を挙げました。

この圧倒的な清正に朝鮮軍は「鬼上官」というあだ名をつけ、恐れたと言われています。

更にその後、清正は日本軍の脅威を示すために朝鮮の国境を越え、満州にある兀良哈(オランカイ)にまで侵攻します。

このように勇猛ぶりをみせた清正でしたが、明・朝鮮との講話を主張する小西行長と対立します。さらに石田三成も行長を支持した事もあって、清正は秀吉より京へと呼び戻され朝鮮出兵から離脱することとなるのです。

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危機に直面してもそれを撃退!加藤清正と慶長の役について


先の文禄の役での和平交渉が決裂し、秀吉はまた朝鮮出兵を開始します。
これが慶長の役です。

清正は左軍の小西行長と共に右軍の先鋒を務め、黄石山城を陥落させ全羅道(朝鮮半島の南西部分)に侵攻します。道都の全州を占領し、蔚山倭城(うるさんじょう)を築いてここを日本軍の縄張りとしました。

しかし、完成目前で約5万7000の敵軍に攻め込まれ、清正は最大のピンチを迎えます。
これが蔚山城の戦いです。

当時、蔚山城を守備していた浅野幸長から襲撃の知らせを受けた清正は、「幸長だけでは見殺しにされるかもしれないが自分がいると分かれば至急援軍をよこしてもらえるだろう」と考え、釜山に援軍を頼み側近のみ500人ほどだけを連れて夜陰に乗じて蔚山城に入城。未完の蔚山城で水も食糧も乏しい中、清正は何とか幾度となく攻め入ってくる敵軍と攻防戦を繰り広げながら、黒田長政らの援軍が来るまでの十日ほどを乗り切ったと言います。

その後も戦いは続きましたが、秀吉の死によってこの慶長の役は終焉を迎えました。

食糧も乏しい中での籠城戦は日本軍にも多大な損害を被りましたが、明・朝鮮軍も攻撃を繰り返すも激しい日本軍の防戦に合い多数の死傷者を出し、援軍が到着した後の戦いでも死傷者の数は増え、最終的に2万もの兵の損害を敵軍は被ったとされています。

それはやはり清正の活躍なくしては成し得なかったことではないでしょうか。

※参照:加藤清正と熊本城の関係とは。築城技術や秀頼伝説について!

虎退治?!加藤清正の朝鮮出兵中エピソード


加藤清正と朝鮮出兵を語る上で、しばしば話題に上がるのは「清正の虎退治」のエピソードだと思います。
しかし朝鮮半島中の清正の逸話はこれだけではありません。

ここからは、朝鮮出兵における加藤清正のエピソードを3つほどご紹介します。

エピソード1;清正の虎退治


よく虎と対峙している勇猛な清正の姿を絵画などで見かけると思いますが、その詳細は慶長の役でのこと。
清正の陣の近くで人食い虎が出没して兵はもちろん馬にまで被害が相次ぎ、清正がこれを槍1本で退治したというものです。

しかし秀吉が健康のための薬として虎肉を欲していたために、虎を狩ってその肉を塩漬けにして日本に送ったという説もあり真意は定かではありません。

虎退治の武器も槍ではなく鉄砲であった説が有力で、槍一本で仕留めたというのは清正の英雄談を盛り上げるために話を盛ったのではないかと言われています。

それに加え、この清正の虎退治の逸話は、なんと他の人物の話を清正の英雄伝としてすり替えられたとする説まで存在し、どこまでが真実なのかも分かりません。

エピソード2:加藤清正とセロリ


実はこの時に清正がセロリを日本に持ち込んだと言われ、今でもセロリの異名として「清正人参」と呼ばれています。
清正はセロリが好物だったのでしょうか…

エピソード3:加藤清正と朝鮮飴


清正は朝鮮出兵の際、もち米や水飴・砂糖などを原料にした長生飴というものを常備食としており、これが現代でも「朝鮮飴」と名前を変えて熊本の銘菓となっています。

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この記事のまとめ


朝鮮出兵における加藤清正の活躍について、文禄の役、慶長の役の清正の様子についてご紹介しました。

清正は文禄の役においてその圧倒的な強さを見せつけ、明・朝鮮軍だけでなく朝鮮の民衆からも「鬼上官」と呼ばれて恐れられていましたが、小西行長と対峙したことがもとで京に呼び戻され朝鮮撤退を余儀なくされてしまいました。

また、慶長の役では厳しい籠城戦に陥リ多大な犠牲を払ったものの、そこを持ち前の戦力で何とか切り抜けただけではなく、敵軍にも更なる大きなダメージを与え、大勝利を収めることに貢献しています。

こうした活躍からか、虎退治の逸話に代表される、朝鮮出兵における加藤清正のエピソードその真偽はともかく数多く残されています。現代でもおなじみのセロリを朝鮮から日本に持ち込んだり、熊本の朝鮮飴の考案者であったとする逸話なども有名です。

なお、朝鮮出兵で活躍したのは清正だけではありません。例えば清正と同じ賤ヶ岳の七本槍の1人である脇坂安治は水軍を率いて李舜臣らと戦い続けたのですが・・・興味があれば以下の記事もどうぞ。

※参照:脇坂安治と李舜臣の関係は?関ヶ原での裏切りや子孫について