加藤清正と言えば、朝鮮出兵における虎退治の伝説や熊本城の築城、豊臣家への忠義が厚い人物といった事がイメージしやすいと思うのですが、その子孫は現在でもいるのでしょうか。
また、加藤清正の墓が山形県にある理由についても、詳しくご紹介します。
加藤清正の子供・加藤忠広が改易された理由とは?
加藤清正の子孫を語る上では、まずは嫡男の加藤忠広について解説する必要があります。
清正は1611年に亡くなり、その後3男の加藤忠広がわずか11歳で家督を継承しています。
しかし、その21年後の1632年、加藤忠広は改易されてしまいます。
改易の理由としては、忠広の長男である加藤光広が諸大名の名前と花押を記した偽りの謀反の連判状を作って遊んでいた事が表向きの理由とされていますが、他にも加藤忠広が家中を統率出来なかったという説や、忠広が徳川家光の弟、忠長と親しく、これを問題視されたという説、他にも加藤家が豊臣家に近い大名だったため、幕府はこれを警戒して以前より取り潰しをはかろうとしていた説など、その理由については諸説あるようです。
その後、加藤忠広は出羽国(今の山形県鶴岡市丸岡)に1万石の所領を与えられ、その後亡くなるまでの22年間を同地で過ごします。
と言っても、同地での加藤忠広の暮らしぶりは悠々自適であったようで、文学や音曲、和歌や水遊びに親しむなど、かなり気楽に暮らしてたようです。
加藤清正の子孫は現在もいるのか?
では、加藤清正の子孫にあたる方々は現在でもいらっしゃるのでしょうか。
結論を言うと、本家筋は断絶してしまったものの、分家に相当する方々は現在でも山形県を中心に広くいらっしゃるようです。
加藤清正の子、忠広には男子が2人いたとされてますが、このうち改易の直接の原因となった長男の光広は蟄居処分となり、加藤家の改易の翌年の1633年に病死。
次男の正良は真田家お預かり処分となり、その後忠広が死去した1653年に父の跡を追って自刃しています。(後継者はいなかったようです)
また、加藤清正には徳川家康の10男である紀州藩主の徳川頼宣に嫁いだ娘がいたのですが、この2人のの間にも子供は出来ませんでした。(夫婦仲は大変よかったそうです)
では何故、加藤清正の子孫が現在も居るのかと言うと、加藤忠広が配流先の丸岡で男子(後に加藤光秋と名乗ったそうです)と女子を産んだためです。
加藤光秋の家系の方は、その後どうなったか分かっていないそうですが、女子の方は婿を取り、その血統が山形県の庄屋、加藤与治左衛門として江戸時代を通して存続します。
加藤与治左衛門家の末裔は、明治時代、屋敷に明治天皇を迎え入れる程力のある家系だったそうですが、後に没落。
そして、この家系を最後に継いだ女性科学者・加藤セチの死去を最後に、加藤与治左衛門家は断絶してしまったものの、その分家筋は現在でも日本各地へいらっしゃるようです。
つまり加藤清正の子孫は、紆余曲折を経て今も日本各地で暮らしておられるという事になりますね。
加藤清正の墓が山形県鶴岡市にある理由とは?
また、加藤清正の墓は熊本県の本妙寺にあるのですが、実は昭和24年に、山形県鶴岡市の天澤寺というところで、加藤清正の遺骨が発見され話題になりました。
つまり、清正の墓は熊本県と山形県の2箇所にあるという事になります。
(他にも東京都の寺院に位牌や供養塔が存在します)
なぜ加藤清正の墓が山形県にあるのか。
これはあくまで推測ですが、清正の子、加藤忠広が出羽国丸岡に配流になった際、清正の遺骨の一部を分骨して同地へ持って行ったものだと考えられます。
忠広は、幕府に父の遺骨を移動してあれこれ言われるのを防ぐため、清正閣という建物を作る一方、実際の遺骨は自宅の庭に埋葬したと言われています。
その後、大正10年には熊本県の調査団がこの地を訪れ、清正閣で使われている石が熊本産出のものである事が明らかになりました。
当時は発掘調査が行われる事がありませんでしたが、昭和24年には遺跡の発掘が本格的に行われ、結果として清正の遺骨や彼が用いていた鎧兜が発見されたそうです。
加藤清正の墓が山形県にある背景には、忠広をはじめとする子孫の方の並々ならぬ努力があったという事ですね。
この記事のまとめ
加藤清正の子孫ですが、本家筋は途絶えてしまったものの、分家にあたる方々が山形県を中心として日本中に現在でも数多くいらっしゃるようです。
また、加藤清正の墓が山形県にある理由としては、清正の子、加藤忠広が山形県に配流された際に遺骨を移動した為だとされています。
この清正の墓には、熊本を中心に多くの方が今なお訪れるとされており、現在でも残る清正人気を証明する現象と言えそうですね。
また、以下の記事では清正ら賤ヶ岳の七本槍のメンバーのその後について解説しています。他の6人の子孫についてもまとめているので、興味があればご覧になってみて下さい。
※参照:賤ヶ岳の七本槍のメンバーまとめ!その後大名になれた者は?
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加藤清正の従兄弟の子孫です。加藤家の系図のコピーもありましたが戦争で焼夷弾が当家(病院)に落ちてしまい焼けましたが幸いにもメモがあったので。残っています。清正の身長は190cmとかないです。158cmくらいで烏帽子兜が高かったので馬下から見て威圧感で大男に見えただけです。清正の4代前は明智修理大夫忠常の4男頼方を養嗣子をもらっています。ですから明智光秀とは親族同士です。初めて訊いたでしょう頼方が尾張中村に居住。10代頼方ー11代清方ー12代清信ー13代清忠ー14代清正ー15代忠広ー16代光広(美濃で自刀、正系は断絶)忠広が山形庄内藩の庄屋の方は女子の子孫で此れも加藤セチさんで断絶、正統はいません。傍系のみ。光秋の子孫はおりません(病死)
kazushi31@hotmail.com
上記は現在使われたいません。
下記に新アドレスを書きます。
KAZUSHIINOUE@OUTLOOK.JP
当方加藤重次(清正の弟三郎清重(妻が重次、勘兵衛の叔母)、稲葉守、犬山城主の養子で清重の長子与左衛門(病死)の長子与七郎を養嗣子にもらうちょい複雑、当家は重次の弟井上勘兵衛の子孫です。清正とは従兄弟です。
云い忘れましたが清正には二人の娘がいます。一人は
長女:あま姫本浄院、最初は館林藩主榊原康勝の妻女、後に阿部修理亮正澄の妻女。
次女:瑶林院 八十姫 これが紀州藩祖徳川頼宜の妻女 子が出来なかったけども側室中川氏の娘理真院の子徳川光貞と茶々姫を養子として激しく育てた。