徳川幕府の治世を盤石のものとする幕藩体制の基礎を固めたことで名高い徳川家光。
「生まれながらの将軍」としてその名に恥じぬ政治能力を発揮した反面、妻との関係ではあまりいい噂を聞きませんね。
その裏には、男性との恋愛エピソードが・・・
この記事では、家光の正室である鷹司孝子やその側室などから、徳川家光の人物像に迫ってみたいと思います。
徳川家光と正室「鷹司孝子」の夫婦関係は破綻していた
徳川家光は若い時分あまり女性に興味を持っていなかったようですが、元和9年(1623年)に将軍に就任すると、五摂家と言われる公家の名家鷹司家から妻を迎えることが決まります。
それが鷹司孝子だったのですが、はっきり言ってこの結婚は政略結婚でした。
※参照:藤原道長の子孫は現代にもいる?五摂家とは?
家光は将軍家が公家から妻を迎え入れる先鞭をつけた訳ですが、この頃、幕府と朝廷との関係は険悪で、その関係性がそのまま夫婦仲に表れてしまいます。
輿入れして間もなく、家光と孝子は別居しており、夫婦関係は最初から破綻していました。
このため、正室という立場でありながら、孝子は「御台所」と呼ばれることなく冷遇されます。家光の死後の形見分けも殆ど行われておらず、また後に将軍となる家綱、綱吉との養子縁組も行われませんでした。
家光が孝子との実質的な夫婦生活を送らなかったのには、家光の男色関係などの要因が絡み合っていると思われますが、根本にあったのはやはり二人の性格の問題だったのでしょうか。
女嫌いで気の強い家光と、セレブ特有のプライドの高さを持った孝子では折り合いが付かないはずですよね。
それでも孝子は家光と離縁することもなく、幕府と朝廷の関係改善に一役買うことにはなりました。また、孝子は晩年には4代将軍となる家綱から、母親と同じような待遇を受けていたとされています。
徳川家光は男色だった!美少年との恋愛エピソードとは
その一方で、徳川家光と言えば数多くの小姓と恋愛関係にあった事が有名です。
俗にいう男色、いわゆるホモですね。
女性に興味がなかったのも当然と言えば当然です。
そして家光はただの男色ではありませんでした。とにかく恋人が多かったのです。家光は身分が高いわけですから当然小姓と呼ばれるお世話係がいるのですが、その中から自分好みの美少年を次々と恋人にしていくのです。小姓としては出世の足掛かりにもなりますし、時の権力者には逆らえない側面もありますから、家光の誘いを断れなかった者が多かったと思います。
家光は複数の美少年達と、思うままに恋愛を楽しんでいたようです。そして寵愛を受けた者の中には、大名にまで上り詰める者もいました。特に酒井重澄と堀田正盛の2人は恋のライバルとして、家光をめぐって激しく火花を散らし、結果的にはお互い大名になりました。
しかし、酒井重澄の方は病気と称して引きこもり、妻と妾との間に四人の子をもうけたことが家光にバレたため、領地を没収される憂き目にあいます。反対に堀田正盛はどんどんと出世していき、家光の小姓の中で寵愛を受けた者の中では「別格」とも言える下総佐倉藩十万石の大名となりますが、最期は家光の死去に際して殉死します。
この他には、家光の寵愛を受けていたにも関わらず、他の小姓とイチャイチャしているところを目撃され、手討ちにされてしまった坂部五右衛門などの例があります。この事から、家光はかなり嫉妬深かったと言えそうですね。自分は気に入ったものと自由に恋愛をしていたのに、小姓の浮気は許さないなんてちょっと酷いような気もしますが…。
権力者の恋人として付き合っていくのは、ハイリスクハイリターンなのですね。
実は側室も多かった徳川家光。子供は後の将軍に・・・
女嫌いだったはずの家光ですが、晩年には多くの側室を寵愛しています。
春日局の大奥における後継者になったお万の方や、その後四代将軍になる徳川家綱を生んだお楽の方、五代将軍になる徳川綱吉を生んだお玉の方(後の桂昌院)など、家光には全部で8人の側室がいました。
特にお万の方は、家光が女性に興味を持つきっかけになった女性として知られており、側室の中では最も寵愛されていたとされています。彼女のおかげで徳川家の直系の血脈が途切れることがなかったとも言えるので、彼女の将軍家に対する貢献は大きいですね。その一方で、幕臣からは「春日局の再来」と呼ばれ恐れられていたそうです。
またお玉の方は「玉の輿」の語源にもなった俗説が存在する女性としても有名で、低い身分の出身ながら5代将軍将軍の生母「桂昌院」として権力を握ったことは有名ですね。
この桂昌院と仲が悪かったのがお夏の方です。彼女はもともと鷹司孝子の女中だったのですが家光の手がつき、後に甲府藩主となる徳川綱重を出産します。この徳川綱重の子供が後の6代将軍にあたる徳川家宣です。
このように、家光の側室からは、後の徳川将軍家を継承する人物が数多く産まれている事でも知られています。
この記事のまとめ
江戸幕府の3代将軍として知られる徳川家光は当初、女嫌いという一面がありました。
正室の鷹司孝子との政略結婚によって朝廷との関係を保っていく道筋もつけましたが、無類の男色家で数々の美少年と浮名も流しました。関係を持つことで出世した者もたくさんいましたが、気に入らなければ恋人でも殺してしまったり改易したりと非情な面も持っていました。逆に好きだったからこそ許せなかったのかもしれませんね。
晩年には男色の影は鳴りを潜め、側室との間にしっかりと世継ぎも残しています。家光は恋愛に夢中になって国崩しをする愚か者では無かったようですね。
そんな家光が仲が良かったのが、同じ徳川家康の孫である千姫です。以下の記事では、豊臣秀頼の死後の彼女の人生について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さい。
※参照:千姫の夫である本多忠刻とは?徳川家光との関係や墓所も解説