源頼朝の妻として、その死後は「尼将軍」として鎌倉幕府の基礎固めに尽力した北条政子
父の時政や弟の義時と並び、この時代を理解する上で欠かせない人物ですが、彼女はその生涯で具体的に何をしたのでしょうか?

この記事では「北条政子のしたこと」というテーマで、政子の5つの功績についてわかりやすく解説します。

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北条政子のしたことその1 源頼朝と結婚し、4人の子供を産む


北条政子は1177年ごろ、後の鎌倉幕府の初代将軍となる源頼朝と結婚します。
頼朝は政子に隠れて浮気を行うこともありましたが、二人の間には4人の子供が産まれており、夫婦仲は少なくとも悪くはなかったと考えられます。

※参照:源頼朝のプロフィールや年表を小学生向けにわかりやすく解説

・長女:大姫
・長男:頼家
・次女:三幡
・次男:実朝

このうち、頼家と実朝は後の将軍となりますが、いずれも非業の最期を遂げています。
二人の娘たちも若くして亡くなっており、政子は4人の子供たち全てに先立たれています。

『承久記』という資料によれば、次男の実朝が亡くなった際、政子は以下のように述べたと言われています。

子供たちの中でただ一人残った大臣殿(実朝)を失いこれでもう終わりだと思いました。尼一人が憂いの多いこの世に生きねばならないのか。淵瀬に身を投げようとさえ思い立ちました。


北条政子のしたこと2 比企能員の変に関わり、長男・頼家から将軍職を奪う


そんな政子ですが、長男の頼家の最後には一定の責任はあったと言えなくもありません。
『吾妻鏡』という資料によると、独断で政治を実行する傾向があった頼家を幽閉したり、政子の父親である北条時政が1203年、頼家の妻の実家である比企氏を滅ぼした(比企能員の変)の際には、政子もこれを了承していたと言われています。

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妻の実家が滅ぼされた事を聴いた頼家は激怒しますが、政子はこれを押さえつけ頼家から将軍職を奪い、出家を命じ伊豆の修善寺に息子を押し込めてしまいます。
頼家は翌年、政子の弟である北条義時の家臣によって殺されてしまいますが。政子はこれをどのような気持ちで聴いたのでしょうか…幕府の安定のためには我が子の犠牲もやむ無しと思う所もあったのか、胸が痛みます。

北条政子のしたこと3 父の時政を伊豆に追放する(牧氏事件)


頼家を追放後、政子は父の時政と協力して次男の実朝を将軍職に就かせます。
ところが1205年、時政は妻の牧の方と共に実朝を廃し、かわりに二人の娘壻である平賀朝雅を代わりに将軍職に就けようとするのです。
この時、牧の方は実朝の殺害まで企てようとしていたと言われています。

時政と牧の方、政子、義時の関係(家系図)は以下のようになります。
牧の方は時政の後妻であり、政子や義時とは血の繋がりはありません。


この事件は「牧氏事件」と呼ばれており、父や義母の強引な手口に政子や北条義時は反発します。二人は時政の屋敷にいた実朝を義時の屋敷に移して保護。時政に近い御家人たちも政子や義時の味方についてしまい、時政と牧の方の企ては失敗しました。

この責任を取る形で時政は出家して伊豆に追放され、平賀朝雅は義時と親交ある公家によって殺されてしまいます。一方の牧の方は娘を頼って京都へ行き、悠々自適に暮らしていたと言われています。牧の方、政子に負けず強さを持った女性だったのかも…

※参照:北条時政の生い立ちや出身地の伊豆について解説。父親は誰なのか?

北条政子のしたこと4 承久の乱で御家人の前で演説をする


北条政子のしたことで最も有名なのは、1221年に承久の乱の前に行った、御家人を前にした演説ではないでしょうか。

朝廷の権威回復を目指す後鳥羽上皇は、執権の北条義時追討の兵をあげます。後鳥羽上皇の命は少なからず御家人たちを動揺させました。
北条政子は、有力御家人を集め自ら「これが私からの最後の詞」と前置きしたうえで演説を始めました。

政子は以下のように語りかけます。

「頼朝公の開いた武士のための幕府によりあなたたちは幸せな暮らしを実現できました。その恩義は海よりもそして山よりも大きな絶大なものです。今日、上皇をそそのかす側近により幕府を追討する命令が出されました。これは決して朝廷の意志ではありません。今回、私たちにとって倒すべきは上皇ではなく、上皇の側にいて上皇をそそのかし幕府追討の命ずるものたちです。私たちがなすべきことはこの頼朝公が創建した鎌倉幕府を守り抜く事です。今こそ将軍家から受けた恩義を皆で返しましょう。朝廷側につきたい人は、今この場で名乗りあげなさい」


鎌倉幕府の事を記録した「吾妻鏡」の要約ではありますが、この政子の演説は絶対的な権威を有する朝廷からの命令に動揺していた御家人たちにとって、「この命令は上皇の意志ではないから、上皇側に参加しなくても朝廷に歯向かう事にはならない」という政子の考えと、鎌倉幕府を守り抜き、武士の時代を今後も継続したいという彼女の強い意志が感じられる演説といえそうです。

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北条政子のしたこと5 北条泰時の執権就任を後押しする(伊賀氏の変)


弟で2代目執権・義時死後の混乱(伊賀氏の変)を治めた点も、政子のしたこととして見過ごせない功績です。

1224年、北条義時がこの世を去ります。そして次の執権の地位を巡り、有力御家人である伊賀光宗と義時の後妻である伊賀の方が有力御家人である三浦義村の協力を得て、北条政村の擁立を計画するのです。
ちなみに北条政村は元服の際、三浦義村を烏帽子親としており、「村」の一文字を名前にしています。

この動きを阻止すべく北条政子は、幕府のナンバー2の地位にあたる大江広元と協議し、泰時を執権とする事に合意。その上で三浦義村を直接訪ね、泰時を次期執権とするよう同意を取り付けます。こうした政子の根回しもあり泰時は無事3代執権となりました。
この動きは後に伊賀氏の変とよばれ、伊賀氏の主な人たちは鎌倉を去る事になります。ただし北条政村は処罰される事なく、後に7代目の執権として元寇への対処などに力を尽くしています。

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まとめ


北条政子のしたこと」というテーマで、政子の功績は5つご紹介しました。

・源頼朝と結婚し、4人の子供(大姫、頼家、三幡、実朝)を産む
・比企能員の変に関わり、長男・頼家から将軍職を奪う
・弟の義時と協力し、父の時政を伊豆に追放する(牧氏事件)
・承久の乱で御家人の前で演説をする
・北条義時の死後、その長男・泰時の執権就任を後押しする(伊賀氏の変)

鎌倉幕府の基礎固めに尽力した政子は、泰時の執権就任を見届けた1年後の1225年にその生涯を閉じる事となりました。政子の墓は自らが開いた鎌倉の寿福寺にあり、次男の実朝の傍で眠っています。