徳川四天王の筆頭とされる酒井忠次は、家康の父、松平広忠の時代から徳川家の重鎮として戦国の世を生き抜きました。忠次は、幼少期の人質時代から秀吉との和睦までの家康の人生を語る上で不可欠な存在です。しかし、酒井忠次も晩年には家康との距離が開いてしまいますが、その原因は何だったのでしょうか。

また、酒井忠次の子孫は現在でも続いているのでしょうか。

この記事では、酒井忠次と家康の関係やその晩年、および忠次の子孫についてご紹介します。

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酒井忠次は徳川家にとって欠かせない存在だった!


酒井忠次は、徳川四天王の1人でその筆頭と言われている存在です。家康の父親である松平広忠の時代から徳川家(松平家)に仕えており、まだ竹千代と名乗っていた家康が今川家に人質に行く際は共に従っています。

※参照:徳川家康の実父である松平広忠とは?


そして忠次は、家康が今川家から独立した後も、三河一向一揆や三方が原の戦い、長篠の戦いなどで活躍しました。1560年代半ばにはこれらの功績によって吉田城主に任命されており、東三河の武将たちを率いる役割を与えられています。

本能寺の変の後も、忠次は家康と徳川家の重臣である事に変わりはありませんでした。この事実は、家康が明智光秀を討伐する計画を練っている際、その先鋒として忠次が任命されてる事から読み取れます。その後の家康の甲斐、信濃攻めの際にも活躍していますね。


秀吉との戦いである小牧・長久手の戦いにも従軍しており、また同じ家康の幼少期から仕えている石川数正が出奔してからは、忠次は徳川家第一の武将と秀吉からもみなされており、1586年には従四位下・左衛門督という官位を与えられています。

※参照:石川数正が出奔した理由とは?考えられる5つの原因まとめ!


酒井忠次という武将の存在は、家康の幼少期〜成熟期にあたって、欠かせない存在だったのではないかと言っても過言ではないでしょう。

晩年の酒井忠次を家康が厚遇しなかった理由とは?


その一方で、晩年の酒井忠次と家康の関係はやや希薄になった面があった気がします。

1580年代になると、本多忠勝や榊原康政、井伊直政といった忠次より一回りも若い武将が徳川家において台頭してました。1527年生まれの忠次にとっては、さすがにこうした武将たちと同じ働きをするのは難しかったのでしょう。


実際、酒井忠次が第一線を離れて、徳川家康が関東に移封された時、嫡男である酒井家次が与えられたのはわずか三万石でした。他の徳川四天王は10万石の領地を与えられている事を考えると、幼少期から家康に従ってきた忠次が不満を持たないはずがありません。

その際、忠次は家康にこう言われたそうです。

お前も我が子が可愛いか

これは、家康の嫡男である松平信康が、武田家に内通していると織田信長に疑われた際に、忠次が信康をかばいきれず、信康が処罰された事を指します。


この説には諸説あり、必ずしも忠次の責任と言い切れるとは思えないのですが、こうした逸話が残っている以上、家康が酒井忠次について何かしら好ましくない感情を抱いていた面はあったのでしょう。

また、家康が酒井忠次を厚遇しなかった説には、家康が秀吉から関東を与えられた際、東三河の武将たちのトップであった忠次と酒井家の力を削減したかったと言うものや、秀吉から官位を与えられた忠次への嫌悪感があったというものがあります。少なくとも、晩年の忠次は秀吉から気にかけられていたようで、隠居料として京都に1000石を与えられています。

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酒井忠次の子孫は山形県で活躍していた!?


酒井忠次は1596年になくなりますが、忠次の子孫はどうなったのでしょうか。


酒井忠次の子孫は江戸時代、庄内藩(現在の山形県鶴岡市)を統治していました。

関係が希薄になったとも考えられる家康と酒井忠次の関係ですが、その功績や恩義までは否定できなかったのでしょう。

忠次の子孫で、所内藩の5代目藩主である酒井忠寄(さかいただより)は14年に渡って幕府の老中を務めています。また、7代目藩主である酒井忠徳(さかいただあり)は藩政改革を行い、当時莫大な借金をかかえていた庄内藩の財政を好転させた事で知られています。幕末では、奥羽列藩同盟の一員として新政府と戦うも敗北しています。


酒井忠次の末裔、酒井家の19代目は、酒井忠順さんです。松岡物産株式会社の代表取締役社長と公益財団法人である致道博物館の理事を務めております。

この致道博物館は、1950年に旧庄内藩主酒井氏によって建物や文化財を寄付され、山形県鶴岡市に創立されました。歴史的価値の高い資料や江戸時代の古民家、明治時代の建築物など時代を感じることができる場所となっています。

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この記事のまとめ


酒井忠次は家康にとって信頼のおける家臣でしたが、晩年になるとその関係は薄れていきました。しかし、忠次の子孫は江戸時代には庄内藩として存続しており、現在にもその末裔の方がいらっしゃいます。

晩年の忠次を冷遇したともされる家康ですが、徳川家を支えた家臣として実力を認めない訳にはいかなかったのでしょう。苦しい時期の家康を支えた酒井忠次の活躍なくしては、徳川の天下はなかったと思います。


なお、酒井忠次を含めた徳川四天王について以下の記事で解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:徳川四天王とは?その後や子孫の存在についても解説!