日本の歴史の平安貴族で知名度ナンバーワンといえば、まちがいなく藤原道長でしょう。
政治の中枢を占める藤原氏の代表として、強大な権力をその手中に収めていました。

今回は道長のまわりにいた女性たち、母、姉の詮子、そして妻を紹介したいと思います。
彼女たちも道長に負けず劣らず、なかなか個性的な人々ですよ。

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藤原道長の母・藤原時姫とはどんな人?


藤原道長の父は藤原兼家、母は藤原時姫という人物です。
兼家、時姫ともに藤原一族ですが、兼家の父は右大臣というエリート中のエリート、時姫の父は最高位が左京大夫(都の左京〈東半分〉の司法・警察・民政などをつかさどる役所の長官)の中級官人。時姫にとっては、明らかに玉の輿婚ですね。

ふたりは三男二女に恵まれます。以下、子どもたちを整理しておきます。


・道隆…長男(注)
父・兼家の死後は跡を継いで関白となる。

・道兼…三男
道隆が病死したのち、関白を継ぐがわずか数日後に病死。
「七日関白」と呼ばれる。

・道長…五男
兄たちが次々と病死後、道隆の長男・伊周との政争に勝ち、左大臣となる。
のちに後一条天皇の摂政。

・超子(ちょうし)…長女
冷泉天皇の女御となり、居貞親王(のちの三条天皇)・為尊親王・敦道親王・光子内親王の4人の子どもを産む。居貞親王が7歳のときに死去。

・詮子(せんし)…次女
懐仁親王(のちの一条天皇)を産む。
次の項で詳しく紹介します。


※注:「長男」「次男」などは時姫以外の妻が産んだ子も含めた序列


平安時代の女性は記録などに残ることが非常に少なく、その人となりが伺える史料はほとんどないのですが、この時姫さんにはわずかながら手がかりがあります。

その史料とは『蜻蛉日記』。作者は藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)という人物ですが、その本当の名前は残っていません。この藤原道綱の父は兼家。そう、道綱母は兼家の側室でした。兼家への愛憎を書き綴った『蜻蛉日記』のなかに、名前こそ出てきませんが、時姫のことと思われる記述が見られます。

道綱母は、兼家に新しい恋人ができたと知り、なんと時姫に「あなたの家にも通ってこないあの人は、今ごろどこにいるんでしょうねえ」といった趣旨の歌を送っています。

それに対する時姫の返歌は「あなたのところだと思っていましたよ」。さらに「時姫さまは私以上にお辛いでしょう。お互いに慰めあいたいものですね」という歌が道綱母から来ると、「まあ、人の心なんてうつろいやすいものですから」との返歌。


なかなかクールです、時姫。5人の子供に恵まれた貫禄とでもいうのでしょうか。
逆に道綱母には子どもは道綱だけ。この時代は、子どもの数で夫との縁の深さを計ったともいいます。兼家は5人の子どもたちも一家繁栄の手駒として大いに利用していくわけですが、時姫も夫の役に立てるよう、子どもを産み育てるのに必死だったのかもしれませんね。

時姫は残念ながら、兼家が一条天皇の摂政となり、権力の頂点に立つ前に亡くなってしまいます。孫である一条天皇の誕生を見ることもできませんでした。会えなかった亡き祖母・時姫のために、一条天皇はのちに「正一位」の位を贈っています。

※参照:藤原道長ってどんな人?年表を小学生にもわかるように解説!

藤原道長の姉・藤原詮子とはどんな人?


母を同じくする道長の5歳年上の姉、藤原詮子は、17歳で円融天皇のもとに嫁ぎます。
天皇のもとには、すでに中宮(平安時代以降、皇后および同等の地位の後宮女性のこと)がいましたが、若くして亡くなります。その後、空いた中宮の位を巡り、藤原頼忠の娘で同じく天皇のもとに嫁いでいた遵子(じゅんし)と争うことに。詮子の父・兼家と遵子の父・頼忠はいとこ同士の間柄です。

詮子は懐仁親王(のちの一条天皇)を産んでいたので有利に思えましたが、中宮に建てられたのは遵子でした。怒った詮子は実家へ帰ってしまい、天皇から内裏へ来るように言われても戻らなかったとか。詮子は「将来の天皇を産み、中宮になるために天皇に嫁ぐのだ」と明確な意思を持っていたのかもしれませんね。

詮子に運が開けてくるのは、懐仁親王が即位して一条天皇になってから。円融天皇には懐仁親王以外に子がいなかったので、詮子の産んだ子が即位したのです。詮子は天皇の生母ということで、皇太后となります。


一条天皇が即位してからは、天皇の母として政治的なことにも介入するようになります。

兄の道隆・道兼が相次いで病死したのち、後継者を道隆の子である伊周ではなく道長にするよう、一条天皇に強く働きかけ、認めさせました。弟の道長をかわいがる一方、兄たちのことは嫌っていたようです。兄たちの相次ぐ死に加え、詮子の力添えがあったからこそ、ラッキーボーイ・道長は出世街道を歩み出すことができたわけです。

自立心が強く、少々激情的なオトコマエ女子。そんな詮子の姿が見えてきませんか?

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藤原道長の妻・源倫子とはどんな人?


最後にご紹介するのは、道長の正妻・源倫子(りんし)です。
源倫子の父は宇多天皇の孫、左大臣・源雅信です。ふたりが結婚したのは道長22歳、倫子24歳ごろのこと。この結婚を勧めたのは倫子の母で、雅信は難色を示したそうです。

当時、道長の位は少納言であり、倫子の父親である源雅信のほうが位が高い状態。雅信は道長について「彼は五男だから、そんなに出世できないだろう」と思ったでしょうね。また、雅信は倫子を天皇に嫁がせることも考えたようですが、年齢が釣り合わないなどの理由で断念。結局、道長に嫁がせることになりました。


道長と倫子の間には6人の子が産まれました。


・彰子(しょうし)…長女
一条天皇中宮。後一条天皇・後朱雀天皇の生母

・頼通(よりみち)…長男
後一条天皇摂政。後朱雀天皇・後冷泉天皇関白

・妍子(けんし)…次女
三条天皇中宮

・教通(のりみち)…五男
後三条天皇関白

・威子(いし)…三女
後一条天皇中宮

・嬉子(きし)…六女
後の東宮敦良親王妃、後冷泉天皇母


なんといっても、女の子が4人産まれたことが、道長にとってこの上ない幸運だったでしょう。

天皇に嫁がせる娘が4人いるということは、誰かが皇子を産み、天皇になる確率がグンと上がるのですから!結果として道長は、一条天皇に彰子、三条天皇に妍子、後一条天皇に威子を嫁がせる事に成功し、あの「この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」を詠むのです。そして男の子は二人とも摂政・関白となり、女の子はいずれも後宮へ。道長の正妻として倫子は立派に役割を果たしました。


藤原道長と源倫子。ふたりの仲は円満だったそうです。道長も倫子と結婚して多くの子に恵まれなければ、「この世をばわが世とぞ思ふ」の境地に達することはできなかったはず。また、倫子の母の読みもズバリ当たったといえますね。

道長とともに栄華を極めた倫子ですが、晩年は道長・妍子・威子・嬉子と次々に家族に先立たれ、出家。90歳で亡くなるまで菩提を弔ったそうです。

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この記事のまとめ


・藤原道長の母親である藤原時姫
・藤原道長の姉である藤原詮子
・藤原道長の正妻である源倫子


この三人について、詳しくご紹介しました。

藤原道長にゆかりのある女性は、とてもたくましいですね。
彼女たちがいたからこそ、道長はチャンスをものにすることが出来たのでしょう。


なお、藤原氏のその後については以下の記事で詳しく解説しています。藤原道長とその一族の子孫について興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:藤原道長の子孫は現代にもいる?藤原氏はその後どうなった?