「戦術を馬場信春に、出陣時期を山県昌景に、出陣場所を内藤昌豊に、敵への政治的な計略を高坂昌信に」とは、武田四天王のメンバーの長所を述べた主君である武田信玄の発言ですが、このうち3番目の内藤昌豊とはどのような人物だったのでしょうか。
この記事では、内藤昌豊が武田信玄に仕えたきっかけやその関係についてご紹介します。また、長篠の戦いにおける内藤昌豊の最後や、その子孫の有無についても同時に解説します。
内藤昌豊が武田信玄に仕えたきっかけは?
内藤昌豊は1522年、工藤家(父、工藤虎豊)の次男、工藤祐長として産まれました。
1536年に、今川家の内乱である「花倉の乱」にて今川義元と兄の玄広恵探が対立すると、工藤虎豊は敗れた玄広恵探方と共に武田方に頼って逃げるのですが、その際、武田信虎が全員に切腹を命じた事に強く反対し誅殺されています。
※参照:今川義元の評価を政治、外交、軍事面の3方向から考えてみた
この事件をきっかけに兄である工藤昌祐と昌豊の2人は父を失ったため諸国を流浪する事に。
漁村にて細々と暮らす日々が多かったと言われています。
そんな中、1546年に武田信玄が父である信虎を追放します。その際、信玄の耳に関東にて流浪する工藤兄弟の話が入りました。この事を聞いた信玄は工藤兄弟を甲斐に呼び戻し、父の行為を謝罪した上で工藤氏の旧領と家督を継ぐ事を許しています。その際、流浪に対しての謝罪とともに金銭を与えたと言われてます。
これが昌豊が武田信玄に仕えるきっかけでした。
※参照:武田信玄の年表と代表的な3つの戦いを簡単にまとめてみた。
昌豊と信玄の信頼関係は「感状」から読み解ける!
内藤昌豊と武田信玄の間には、非常に強い信頼関係があったようです。
信玄は昌豊に対して、「昌豊ほどの弓取りの才能があれば、普通の人を抜きんでる働きがあって当然」として、生涯1度も感状を出さなかったと言われています。
この「感状」とは、主に軍事面で目覚ましい働きをした家来に対して主君が発行する書状のことを指します。感状を多く貰った武将ほどその力量が認められる傾向にあり、特に再仕官の時に重要視されました。今で言うところの職務経歴書に当たるものだと考えてもいいと思います。
一方の昌豊も、感状については全く拘っていなかったようです。「戦いは大将の指示次第で勝利が決まるもので、個人の手柄に拘るのは小さいことだ」という昌豊のセリフが残っており、このエピソードは信玄と昌豊の信頼関係を示すものとして知られています。
また、武田家臣の中での昌豊は「人衆を扱う事では武田家無双の侍大将」と言われており、人望が非常に熱く、また知略にも優れていたようです。
後に同じく武田四天王である山形昌景から「どんな時でも武略をすぐに整える事の出来る真の副将格である」と称賛を受ける事もあり、実際昌豊は、1559年以降の信玄の戦いのほとんどに参加しています。
長篠の戦いにおける内藤昌豊の最後とは
武田信玄の没後、昌豊は跡取りの武田勝頼に仕えるものの、その関係はあまり良くはなかったようです。
1575年の長篠の戦いにおいて、昌豊は山県昌景、馬場信春らと協議して「攻撃すれば被害が甚大になるため、一度退却するか、長期戦にて敵の兵糧が無くなるのを待って一気に攻めるべき」という事を勝頼に進言したとされています。しかし勝頼は昌豊の進言を拒んでおり、勝頼と信玄時代の家臣団の関係が良好ではなかった事が読み取れます。
そして長篠の戦い本戦で、昌豊は兵1500程を率い織田、徳川本隊と激戦を繰り広げます。
織田、徳川連合軍による鉄砲三段撃ちにより、武田勢15000の多くが討死する中、昌豊隊は唯一、第3柵までを突破するも、多くの犠牲を出し退却。その後、戦場から勝頼を逃がすため、馬場信春と共に殿をつとめ戦死します。
内藤昌豊の死に様は、身体中に矢、竹槍が無数に刺さった状態での壮絶な状態だったと言われています。まるで信玄に自らの忠義を示すかのような状態ですね。信玄と共に逝けなかった無念と、今、責務から解放され信玄のもとに逝ける想いがあったのかもしれません。
内藤昌豊の子孫は?子供が4人もいた!?
内藤昌豊の死後、その子孫はどうなったのでしょうか。
昌豊には実子がおらず、養子として保科正俊の3男をもらっていました。
これが内藤昌月(ないとうまさあき)という武将で、彼は昌豊死後、箕輪城主となり武田勝頼の上野支配において活躍します。
その後は織田家→北条家に従い、1588年に38歳で亡くなったようです。昌月の死後の内藤家は北条家の滅亡と共に所領を失い、その子孫は昌月の実家である保科家に仕えたと言われています。また、幕末の会津藩の家老として活躍した梶原平馬も、内藤昌豊の子孫にあたる人物として知られています。
この他に、昌豊には2男の内藤昌茂、3男の直矩、4男の昌家という合計4人の子供がいました。
2男の昌茂の子孫は尾張徳川家に、3男の直矩の子孫は彦根藩の井伊家に仕え、4南の昌家の子孫は帰農したと言われています。
内藤昌豊の子孫にあたる方は表には出ないものの、今なお日本各地に暮らしておられるのでしょうね。
この記事のまとめ
内藤昌豊と武田信玄の関係や長篠の戦いでの最後、その子孫についてご紹介しました。
昌豊と言えば、大河ドラマ「武田信玄」「風林火山」において共にその名前が出てこないなど、他の武田家の家臣たちに比べやや地味な印象があります。しかし、これだけの功績を残した人物なのですから、NHKが今後武田家を題材にした大河ドラマを作る際は、歴史ファンとしては、ぜひ昌豊も出してやってほしいと思うばかりですね。
ちなみに、内藤昌豊以外の武田四天王については以下の記事でまとめているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さい。
※参照:武田四天王(武田四名臣)は実は8人いた?甲陽の五名臣も?
内藤昌豊(昌秀)の子孫は武田家滅亡後
長野県佐久穂町穴原に帰農して一集落を
形成しています
詳しくは、長篠城跡保存館発行の
[甲州の剛将、内藤昌豊公とその子孫]を
参照してください
ありがとうございます。先祖が内藤佐渡の守になる子孫の方が出自を調べておられます。現在第14代目になります。初代が内藤行勝、ちょっと不明ですが、国高とも称しておられます。当時内藤五郎左衛門とも名乗っていたようです。急いで調べたいです。行勝の親は内藤昌豊で外祖にあたるとか?若狭武田の家臣です。箕輪城で誕生したとか?
中村 様
内藤昌豊(昌秀)の子孫で井伊家家臣となった
内藤五郎左衛門がいます
詳細は
彦根市教育委員会発行
彦根城博物館編集
[侍中由緒帳3)63ページ参照して下さい