1987年のNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」は最もヒットした大河ドラマとして知られてますが、この作品が今日の伊達政宗の(いい意味での)評価に与えた影響は多かったと思われます。
その一方で、「伊達政宗は過大評価されている武将」という声もあるのですが、実際はどうなのでしょうか。
伊達政宗の凄さを軍事、内政、外交に分けながら、彼の真の評価に迫りたいと思います。
伊達政宗の凄さとは?軍事、内政、外交に分けて評価してみた。
伊達政宗の凄さは、ある意味「負け知らず」だった点にあると言えるかもしれません。
伊達家が敗北したとされる合戦の1つに、1588年に大崎義隆、最上義光連合軍との間で繰り広げた「大崎合戦」があります。この戦いで、伊達軍は政宗の家臣の留守政景と泉田重光が対立し、指揮官の連携が不十分だったため敗北を喫しているのですが、この戦いに政宗自身は参戦していないので、大崎合戦で「政宗が負けた」と言うのは少しお門違いかな…と思います。
また、政宗が自ら参陣した人取橋の戦いでは、重臣である鬼庭良直を失っているものの、南奥州の大名たちの連合軍に自軍の2倍以上にわたる損害を与える事や、伊達家の所領を奪った訳ではない事から、政宗が「負けた」訳ではないと言うことが出来ると思います。
※参照:片倉景綱の活躍や居城の白石城について解説。子孫はいるの?
むしろ伊達政宗の凄さは、内政面にこそあるのではないでしょうか。
伊達政宗は1591年、葛西大崎一揆を扇動した事によって先祖代々の土地を秀吉に没収されています。その代わりとして、荒廃した土地を与えられた事によって、伊達家は経済的に多大な損失を被ってしまいます。しかし、関ケ原の戦い以降、政宗は領内の内政に力を注ぎます。貞山堀と呼ばれる運河や北上川水系の流域の開拓など領国の開発を大規模で行った結果、仙台藩62万石の石高は実質的には72万石であったと言われています。仙台藩は政宗の死後も発展し続け、その石高は18世紀には100万石を越えていたと言われています。
また、伊達政宗の凄さは外交面にも表れている気がします。秀吉の小田原征伐時や秀次事件における立ち回り方、あるいは徳川秀忠、家光に与えた影響を踏まえると、政宗は今で言うところの「コミュニケーション能力が非常に高い人物」だったのだという気がします。
特筆すべきはイスパニア(現在のスペイン)の外交に力を入れていた事でしょう。政宗は1613年、家臣の支倉常長らを慶長遣欧使節とし、エスパーニャやおよびローマへ派遣しました。この慶長遣欧使節の目的は、伊達政宗の倒幕への陰謀や、カトリックの布教など様々な説がありますが、通説としては仙台藩とイスパニアとの通商にあったとされています。ただし、江戸幕府のキリスト教を禁止(禁教令)した事もあり、この慶長遣欧使節が徳川政権に大きな影響を与える事はありませんでした。
とは言え、日本人が初めてヨーロッパの国へ行き、外国と交渉した出来事は高く評価できる事ではないでしょうか。また、この慶長遣欧使節は明治時代に行われた岩倉使節団に影響を与えたという一面もあります。後々の歴史を見ていくと、この慶長遣欧使節は非常に有意義な出来事であったと言えるでしょう。
伊達政宗は過大評価されている人物なのか?
「伊達政宗って過大評価されてるよね」
ネットで政宗の事を調べていると、少なからずこのような書き込みが見られます。
そして私も、少なくとも軍事面において、伊達政宗は過大評価されているという気がします。
その理由ですが、まず彼の生きた時代が挙げられます。
伊達政宗は、若い頃から当主として伊達家をまとめていた事は評価できますが、天下統一に近づきつつあった秀吉に小田原合戦直前まで戦おうとした事は、1つの家を預かる当主としてはやや軽率な行動だったという気がします。
四方八方に敵がいた事では織田信長と共通する部分はありますが、政宗は信長ほど、近隣の有力大名を服属させた訳ではありません。秀吉の小田原征伐時にも、最上家や佐竹家はいまだ顕在ですからね。
また、秀吉に服属してからも葛西大崎一揆を扇動したり、あるいは関ヶ原の戦いで和賀忠親を扇動して一揆を起こして思うように所領を確保できなかった点は、政宗の評価を下げる大きな要因と言わざるを得ません。
この他にも、関ヶ原の戦いで伊達政宗は旧領である刈田郡を上杉家から奪回してはいるものの、上杉家の撤退の際には思うような戦果を挙げる事は出来ませんでした。また、大坂の陣では伊達家は後藤又兵衛を討ち取る手柄を立ててはいるものの、後藤勢は2800なのに対し政宗ら徳川方は2万人以上の兵力がおり、これはごく当たり前の結果だと言うことも出来ます。
※参照:伊達政宗と大坂の陣。神保相茂や真田幸村との縁について解説
また、伊達政宗と言えば「独眼竜」というあだ名が有名ですが、このあだ名がいい意味で先行してしまい、ゲームやドラマでの政宗の人気を上げ、武将としての評価を高めている一面もあるのではないでしょうか。
伊達政宗という人物を軍事面から見ると、所々に取りこぼしがあるというのが私の意見です。
その一方で、政宗や仙台藩が江戸時代を通してその領国を維持したのは、彼の立ち回り方やその内政面の事跡が大きかったのではという印象を感じますね。
この記事のまとめ
伊達政宗は戦争において大きく負けてはいないものの、肝心の勝ち戦でいくつか取りこぼしがある武将です。
「独眼竜」というあだ名、および政宗を主人公にした大河ドラマのヒットによって、彼の評価は実際よりかなり引き上げられている気はします。特に軍事面において、政宗は過大評価されているというのが私の印象です。
その一方で、政宗の凄さは内政、外交面にあったと思います。荒廃していた土地を内政によって豊かにした事や、豊臣、徳川家の元での立ち回り方を見ると、彼の世渡り上手はかなりものではなかったかという気がしています。
以下の記事では、小田原征伐時における伊達政宗の立ち回り方について解説しています。興味があれば一度ご覧になってみて下さい。
※参照:伊達政宗の小田原合戦への参陣。伊達家と北条家の関係は?
和賀一揆扇動について、
政宗はネガティブな評価をされがちではあります。
しかし、西と東の日本全体を巻き込んだ争いが僅か一日で決着すると、
一体誰に想像できたでしょう。
政宗は遠く奥州で難敵上杉と戦った訳ですが、山形の最上は信用ならないし、南部も一応最上の援軍として南下している。上方の戦況によっては、東軍方諸将の寝返りで
孤立する可能性もあった訳です。
東軍が負けた場合や決着が付かずに戦況が膠着した場合を考慮すれば、混乱に乗じて少しでも領土を取っておこう、と行動するのは極めて自然でありましょう。
となれば、最上領に留まっていて、
動く気配のない南部は絶好の獲物であります。実際に、和賀忠親は白石宗直の援軍を得て、戦いを有利に進めています。忠親が敗れたのは、西軍壊滅の報を聞いて上杉が撤退した後、南部が踵を返して反撃に出たからです。
結果的には領土拡大に失敗した政宗ではありますが、その行動自体は戦国大名としてごく自然なもの。
我々は関ヶ原での顛末を知っているからこそ、政宗に失敗の烙印を押せる訳ですが、食うか食われるかの時代を生きた戦国大名からすれば、やれる事はすべてやっておくべきだったのではないでしょうか。
もし政宗が上杉との戦いに専念し、
一揆先導には手を出さなかったとして、徳川が「百万石の御墨付」を
素直に履行したとは思えません。
関ヶ原合戦後、最も多く加増されたのは結城秀康で、57万石でした。
徳川にとって、野心家の政宗に40万石も加増することは非現実的です。
伊達領は江戸の背後に位置する訳ですから。
個人的には、どう動いても10~20万石程度の加増で収まったのではないかと思います。
もし上方の戦況が膠着し、奥州の戦乱が長引いたとして、政宗の和賀一揆扇動が成功していれば、伊達領は40万石以上拡大していたでしょう。
何と言っても伊達は上杉と一時的に和睦していましたから、最上を攻めるも南部を滅ぼすもお好み次第だったのです。南部領さえ取り込めば、北の残りは津軽などの小大名だけです。小山の結城秀康と相語らって、上杉との和睦を反故にして上杉・佐竹をせめ、佐竹の与力大名の相馬、岩城に攻め込むこともできます。
時間さえあれば、奥州制覇も夢ではなかったかもしれませんよね!
そうですね!