小早川秀秋といえば、真っ先に浮かぶのが関ヶ原の戦いでの裏切り!
すっかり裏切り者の代名詞の彼ですが、本当のところは…?
歴史の授業では軽くスルーされてしまうこの事件。
彼の育った背景をちょっと覗いてみたら少し面白いことが分かってきました!
教科書ではあまり取り上げてもらえない「図らずも大裏切り男になってしまった」小早川秀秋の裏切りの真実や、関ヶ原の戦いで秀秋が陣取った松尾山の詳細に迫ってみます!
命懸けの裏切り…小早川秀秋の真意とは如何に?!
まず豊臣秀吉の正室・ねねの甥にあたる秀秋は、3歳の時に秀吉の養子となりました。
どうやら秀秋はかなり賢い子だったようで、叔母のねねにはとても可愛がられていたようですね!
そして世継ぎのいなかった豊臣家の跡取りとして、豊臣秀次と一緒に育つことになります。
年齢差が大きかったため、秀吉→秀次→秀秋と世代交代していくと誰もが思っていたのですが…
※参照:豊臣秀次ホントに有能?生きていれば豊臣政権はどうなった?
秀吉の側室淀君が、秀頼を産んだことで状況は一変!
もちろん跡取りの座は秀頼へ…
次第に疎まれるようになった秀次は秀吉に切腹を命じられ晒首に。
秀秋も領地を没収された挙句養子に出され、朝鮮出兵の総大将として戦地へ送られます。
しかもその時の失敗の処分として、秀吉と石田三成により減封されてしまいます。
この時に犯した失態も危機に瀕した加藤清正を救わんと総大将自ら戦線に立ったこと…
そんなことで!?むしろイイ奴じゃないか!!とつい思ってしまいがちですが、なんせ時代が時代ですしね…
そんなこんなで今まで実の子のように手厚く扱われていたのに、こんなの面白くない!と秀秋は思ったに違いありません。
この件により、秀秋は秀吉と三成に恨みの念をもつようになるのです。
そりゃあそうもなるでしょう…
ずっと溺愛してくれていたはずの秀吉にこんな扱いをされたら誰だって怒り心頭ですよね?
その後しばらくして秀吉が亡くなると、徳川家康の計らいで筑前の旧領に復帰します。
ここで家康に恩ができるわけですね!
そしてあの関ヶ原の合戦が始まります!
ここまでの経緯があって、秀秋は最初から恩のある家康のもとへ裏切りの密約を交わしていたようです。
その証拠に秀秋の軍には寝返る手助けをする家康軍の密偵がついていたと言われています。
ちなみに秀秋は家康軍が勝利すると何かの理由で確信していたのではないかという噂もありますが、それは謎のままです…
つまり、裏切ったというより秀秋は初めから家康軍寄りだったというわけですね!!
現在も裏切り者のレッテルを貼られ続けている秀秋ですが、こうして見てみると「裏切った」というよりは、石田三成と亡き豊臣家に見切りをつけたという方がしっくりくる気がします。
小早川秀秋の裏切りをプロデュースしたのはあの大物サラブレッド
さてこの秀秋という人物、幼い頃はよくできた子だったようですが少々気の弱いところがあり…
彼一人ではこんなリスキーな寝返り作戦を決行する勇気はなかったかもしれません。
そこで「小早川秀秋が徳川家康側に寝返る」という演出を作り出した人物がいたのです!
その人とは黒田長政、あの軍師として名高い黒田官兵衛の息子。
この長政と秀秋は義理の従兄弟の関係にありましたので、秀秋は長政から事前に家康側についた方がいいよというようなことを常に言われていたようです。
実際長政に諭され、秀秋から裏切るつもりでいるとの書状も家康に送られています。
黒田官兵衛・長政親子といえば豊臣秀吉に仕えていたことで有名ですが、石田三成とは仲が良くなく秀吉の死後、長政は三成にはつかず家康に接近していたのです。
一方の石田三成は非常に困った状況に追い込まれていました。
なぜなら味方の軍には戦の経験の浅い武将しかいなかったことや、そもそも人気のなかった三成に加勢せねばならんということで味方のモチベーションがだだ下がり…
極めつけに多くの大名たち、そして信頼していた人物たちまでもが実は裏で家康と繋がっていたり、いつの間にか敵側へ裏切っていたりしたものだからもう大慌て!
そこで、嫌われているとは知ってはいたけれども…
秀秋に対し二国分の領地を増やすし、この戦いに勝ったら秀頼が成人するまでの間、関白もさせてあげるから援軍を早くよこして!!と使者を送ります。
幼少の頃から何度も裏切られてきた秀秋ですし、そもそも三成を嫌っていましたのでそんな誘いにやすやすと乗るわけもなく、彼も当然のごとく家康側についてしまったのでした。
「今まで散々コケにしてきといて、そんな虫のイイ話なんか信用できるか!」
となるのは必至ですよね…
まあ実際お互いにイイ感情を抱いていなかったので、三成もこの戦が有利にさえなれば秀秋なんて後からどうとでも丸め込めると考えていたようで、その約束を守るつもりはあまりなかったとの情報も。
秀秋の選択は間違っていなかったのかもしれませんね。
裏切られた形になってしまった三成ですが「やはり…やっちまったかあいつ…まあそんな気はしていたけどな…あいつには特に嫌われてたし」と三成の内心落胆する姿が想像できそうです…
関ヶ原が一望できた松尾山は戦いの重要ポイントだった!
関ヶ原の戦いで小早川秀秋が寝返る直前に陣取ったとされる松尾山。
この松尾山は関ヶ原の平地を一望できる場所であることから、西軍東軍どちらの動向もよく見て取ることができました。
ここ関ヶ原はそれまでも幾度となく歴史の舞台となってきた場所でしたので、この関ヶ原の戦い以前にこの松尾山は戦時の拠点として土塁や堀切などが作られ、すでに砦としての機能をもっていたと思われます。
ちなみに秀秋が占拠する前は三成側の伊藤長門守盛正が陣取っていたのですが、これを秀秋が強引に追い出したと言われています。
こんな秀秋の横暴がまかり通るのか?と疑問にも思いますが、立地条件などからいって東軍の何らかの手引きがあったのでは…と昨今では噂されています。
秀秋の軍はなんと1万5千の大軍勢!
こんな大軍が一番立地のいい場所に陣取っているのです。
家康軍からしてみれば、この裏切り軍は油断している三成軍を圧倒させるにもってこい!
家康側の誰かが秀秋をここに誘導したとしてもおかしくはないですよね!
また、しばらくここで秀秋が合戦の様子を傍観していた話は有名ですが、彼はここで何を考えていたのかとても興味深いですね。
ここにきてどちらに軍配が上がりそうかその目で見極めていたのでしょうか。
結局「裏切る約束はどうなったのか?!」と業を煮やした家康がこの松尾山に向けて大砲を打ち秀秋の尻を叩いてようやく、秀秋は眼下の大谷吉継軍を破り家康軍を勝利に導きます。
しかしその大砲の音は地形的に秀秋には聞こえていなかったとも最近では言われていますので、そうなると彼の意志で家康側につくことを選んだとも言えます。
全てが見渡せる松尾山で戦局を見極めた秀秋が、自ら家康軍を勝利に導かんと三成軍撃破に動いたのかもしれません。
まあ、今となっては小早川秀秋本人にしか心のうちは分かりませんね…
ちなみに、現在の松尾山は、岐阜県の「関ケ原町」という地域の名所にもなっています。現地には小早川秀秋の陣跡、具体的には土塁や曲輪が残っていて、当時の面影を現在に伝えています。
※参照:関ヶ原の戦いの場所はどこ?現在の不破郡関ケ原町について!
この記事のまとめ
そもそも幼少の頃から裏切られ続けてきたのは小早川秀秋の方で、関ヶ原での寝返り行為は起こるべくして起きた事態に他なりません。
恩のある家康に忠義を誓うのは至極自然なことと言えますよね。
また、この秀秋の裏切り事件を裏で操っていたのは、あの黒田長政でした!
父・官兵衛から受け継いだ知略で秀秋をうまく動かし家康軍を優勢にした影の大役者。
対する石田三成はこれに勝ることはできなかったと考えられます。
そして関ヶ原の戦況を全て見渡すことのできた松尾山。
1万5千の大軍を率いていた秀秋軍がここを押さえたことにより、戦局は一気に家康側に傾いたといっても過言ではありません。
関ヶ原の戦いでは多くの武将の裏切りが頻発し、まさにカオス状態だったと思われます。
疑心暗鬼の中、武将たちは命を懸けて戦いに挑んでいたに違いありません。
中でも勝利の鍵を握っていた小早川秀秋の計画的裏切り。
それは、なかなか自分の思い通りに生きることのできなかった戦国時代において起きた下剋上の極みではないかと私は思います。
ちなみに、以下の記事では関ヶ原の戦いの後の小早川秀秋について触れています。もしかしたら秀秋に子孫がいたんじゃ・・・?という事が気になった方もいると思いますが、実際はどうだったのでしょうか。
※参照:小早川秀秋の評価やその死因について。子孫は現在もいるの?