いつの時代も親が名を上げていると、その子供はよほどの才能がない限り凡庸であるといった評価をされることが多いです。
それは戦国時代の武将も同じことで、優秀な父親の影に隠れてしまった人物も多くいます。
今回はその中でも、今川義元の息子である今川氏真についてご紹介します。
今川氏真と言えば、今川家の滅亡の原因を作った「暗愚の当主」というイメージが強いですが、何かしら再評価の余地はないのでしょうか?
また、文化人としては有能だったと言われる氏真ですが、具体的にどの分野でその才能を発揮したのかについて調べてみました。
今川氏真は無能なのか?再評価の余地を検証!
今川氏真は、蹴鞠や和歌に傾倒し政務を疎かにした結果、今川家を滅亡に導いたという、戦国武将としては決して有能ではない印象を持たれることが多い人物です。
なぜ、このような悪い印象を持たれてしまうのでしょうか。
事実として、今川氏真の代で大名家としての今川家は滅亡しています。
このことから、大名としての能力が低かった無能な武将という評価がなされているようです。
さて、それでは実際の今川氏真の能力はどうだったのでしょうか。
再評価の余地はあるのか、気になる所ですね。
まず今川氏真の内政面での事跡ですが、織田信長に先んじた楽市政策、徳政令の発布、役の免除など、数々の政策を行っています。
外交面では北条家との連携を維持、幕府の相伴衆に列し、領国の混乱を幕府の権威を用いても収めようとしていたという説があります。
こうした内政面、外交面を見れば、今川氏真は領国経営にはむしろ積極的であったとは考えられるのではないでしょうか。
特に内政面では有能と言えるほどの政策を展開していると私は思っています。
少なくとも、再評価の余地はある程度はあるかと考えられます。
しかし、こうした政策も今川領国の混乱を収めることができず、衰退していきます。
この頃の今川家の状況としては、桶狭間の戦いで父・義元が亡くなって以後、徳川家康を始めとした家臣、国人衆の離反が相次いでいました。
その状況を内政で持ち直すことが難しかったのでしょう。
遠江の井伊谷の黒人、井伊直親を家臣の朝比奈泰朝に襲撃させるなど、離反した国人衆の処罰なども行ってはいましたが、最終的には収めた反乱も途中負けていたりと、氏真は軍略の面で能力を発揮できなかったようです。
※参照:井伊直親とは?井伊直政や井伊直虎との関係とは?
こうしてみると、内政や外交の面、文化面での能力は決して低くはなく、再評価の余地はあるものの、軍事面において無能と言われるのは致し方がない面があると私は思います。
今後、氏真に対する研究が進む過程で、再評価されることも増えてくるのではないのでしょうか。
今川氏真が文化人として有能さを発揮した分野とは?
文化人として名を残した今川氏真ですが、どの分野で有能ぶりを発揮したのでしょうか。
それを語る上で欠かせないのが、和歌・蹴鞠・剣術の3つです。
中でも和歌は「集外三十六歌仙」に名を連ね、山科言経や冷泉為満といった公家と和歌会や連歌会をしきりに行っていました。
今川氏真の和歌の腕前については平均的だったようで、当時の水準を上回る作品はそれ程多くはなかったそうです。
ただ、その中には個性的で有能な作品がいくつかあったと言われています。
その一方で、江戸幕府の老中である松平定信から「足利義政の茶湯、大内義隆の学問、今川氏真の歌道の3つは見習ってはいけない見本」と言われるなど、今川氏真の和歌への傾倒は、国を滅ぼす悪い例として考えられていたのも事実です。
また蹴鞠では、駿河に下向していた飛鳥井流宗家の飛鳥井雅綱に師事しただけでなく、1575年には父の仇でもある織田信長の前で蹴鞠を披露した逸話も残っています。
剣術では、塚原卜伝の新当流を学んでおり、居合等の流派である「今川流」の始祖ではないかという説もあるので、腕前はかなり有能だったと考えられます。
これらの分野で有能さを発揮した氏真と交流のあった人物も、山科言経や里村紹巴など、公家や文化人が多かったようです。
この記事のまとめ
今川氏真は、確かに大名としての今川家を滅亡に導きました。
しかし、どれだけ有能な人物であっても、その時の状況によっては力を発揮できないこともあります。
実際、今川氏真は内政や外交である程度の事跡を残しており、世が世なら再評価の余地も十分あったと私は考えています。
歴史の表舞台ではすぐに目につかない人物でも、調べていくと実は有能な人物が、意外とたくさんいるのかもしれません。
ちなみに、氏真の父親の今川義元の評価についてはこちらをどうぞ。
※参照:今川義元の政治、外交、軍事面での評価について
桶狭間の戦いで信長に敗北したイメージが強い義元ですが、実際はどのような武将だったのかについて調べてみました。