戦国時代を収めた徳川幕府は260年もの長い間平穏に続きました。
その初代将軍、徳川家康の下には優秀な武将が多く、本多忠勝、榊原康政、そして井伊直政といった「徳川三傑」とも言われる人が活躍しています。
この記事では、その中でも井伊直政の能力について、軍事面はもちろん、内政や外交面での事跡を参照しながらご紹介します。
井伊直政の軍事面での能力について
まずは井伊直政の軍事面での能力について解説します。
井伊直政が指揮していた軍は、武田の山県昌景から継承した全身を赤くあしらった軍装をしていたため、「井伊の赤備え」と呼ばれていました。
井伊直政本人も赤備えを纏い、大きな角のような前立てと長槍を振るう姿は「井伊の赤鬼」として諸大名に恐れられていたようです。
また、その呼び名に相応しく、小牧・長久手の戦いでの活躍や、真田攻めの撤退の指揮、関ヶ原の戦いでは東軍の指揮の中心的な役割を担うなど、軍事的能力が高かったと考えられています。
関ヶ原の戦いの後、井伊直政は彦根(今の滋賀県)を与えられてますが、その背景には、西国大名への抑えや非常時の際に朝廷を守るといった事が求められていたそうです。井伊直政の軍事面の能力に対する家康の期待の高さが伺える逸話ですね。
なお、井伊直政の武力的手腕は豊臣秀吉にも認められており、天正14年(1586)には豊臣姓を下賜されたという話も残っています。
井伊直政の内政面における能力とは?
その次に、井伊直政の内政面における能力について見てきましょう。
まずは人事面についてですが、井伊直政は自他ともに大変厳しかったと言われています。
家臣に少しでも失敗したものは必ず処罰し、その厳しさから近藤秀用(こんどう ひでもち)などのように、本多忠勝の元へ出奔する者も現れた例があるほどです。
また、井伊直政の筆頭家老である木俣守勝(きまた もりかつ)が直政のあまりに厳しさに音を上げ、自分を旗本に戻してくれないかと家康に嘆願したという逸話も残っています。
しかし、1590年に家康が関東へ移封された際は、その家臣の中で最も多い高崎12万石の領国を拝領しており、その信頼度を伺わせます。
実際、箕輪城主であった際は領民から慕われていたという説もあり、家康に対しても自身に厳しく、生涯を通して奉公していたようです。
井伊直政の政治能力は多くの大名が高く評価していて、小早川隆景など少なくない地方の大名は、その気になれば天下を取ることもできるだろうという評価を残しています。
※参照:徳川四天王とは?その後や子孫の存在についても解説!
井伊直政は外交官としても優秀だった!
このように大変優秀な井伊直政ですが、特に外交の能力が高く、多くの大名とのやり取りが史料に残っています。
秀吉死後は、豊臣方の武将を徳川方に引き入れ、特に黒田官兵衛・長政親子とは盟約を結ぶほどの親交を持ちました。
同じく、関ヶ原の戦いでは、直政の働きかけにより京極高次など複数の武将を西軍から東軍へ取り入れることに成功。関ヶ原の戦いが終わった際には、西軍の総大将であった毛利輝元との講和を持ち、家康への忠節を誓わせています。
その他にも長宗我部盛親の謝罪の取り成しや、島津氏との講和、真田昌幸・幸村親子の助命にも尽力したという話が残っています。
こうした直政の高い外交能力による講和などにより、徳川家の信頼は厚くなり、安定した幕府政治を行う基礎が出来上がったのではないでしょうか。
この記事のまとめ
井伊直政の能力についてご紹介しました。
・軍事:赤備えで有名、数多くの闘いで活躍
・内政:家臣には厳しい一方、他の大名や領民には認められ慕われる
・外交:徳川家随一の外交官として多岐にわたって活躍
このように、井伊直政の能力を見ていくと、軍事、内政、外交と、全ての面において優秀であったことが分かります。しかし、それも井伊直政本人が家康への奉公の気持ちを忘れず、自分を厳しく律していた結果なのかもしれません。
戦国時代の終了や、江戸幕府の固い基礎が出来上がったのは、彼の力が大きく関わっていると私は思います。
ちなみに以下の記事では、井伊直政の養母であり、大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主役である井伊直虎という人物について解説しています。井伊直政の父親や祖父についても触れてるので、興味があればご覧下さいね。
※参照:井伊直虎の父親や婚約者について。井伊直政との関係は?