大河ドラマ「おんな城主直虎」では、俳優の小林薫さんが演じる南渓和尚(なんけいおしょう)という人物が登場します。

一体どのお寺のお坊さんだったのでしょうか?

ドラマの主人公、井伊直虎との関係にも触れながら、南渓和尚とはどのような人物だったのかを見ていきましょう!

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南渓和尚とは?井伊家当主の命を救った男の生涯!


南渓和尚とは、戦国時代の井伊家を裏方で支えた僧侶です。龍潭寺(りょうたんじ)の住職となった1530〜1540年代から亡くなる1589年まで、滅亡寸前だった井伊家を徳川家臣団ナンバーワンにまで引き上げた立役者と言える人物でした。

1507年頃、南渓は井伊家16代当主、井伊直平の次男(あるいは養子)として生まれたと言われています。当時、武将の息子たちの中から、長男以外の誰かが仏門に入るのは珍しいことではありませんでした。
その理由は、兄弟間の相続争いを避ける、分家によって本家の勢力減退を避けるといった事のほか、寺で学問を治め領地経営に役立つ高度な智恵を身につけ参謀的な役割を果たす事も含まれていました。南渓はまさにこのケースを地でいった人物だと言えます。

1544年に井伊直平の子で、南渓和尚の兄弟である井伊直満、直義兄弟が今川義元に誅殺されると、直満の子供である亀之丞(後の井伊直親)にも殺害命令が出されます。このとき南渓は、亀之丞を信州の松源寺へ逃亡させ、井伊家の後継者となる若君を守りました。この地で10年を過ごした亀之丞は成長すると井伊谷へ戻り、元服して名を直親を改めています。

また、1562年に井伊が今川氏真によって誅殺され、その翌年に南渓の父親である直平も亡くなり、井伊家の後継ぎが幼い直親の子・虎松だけとなってしまった時も、直平から後を託された南渓は知恵を絞り、出家していた直盛の娘・次郎法師を「井伊直虎」と名乗らせる事で、井伊家の当主にするという策略を実行したと言われています。

さらに南渓和尚は、今川家から執拗に命を狙われた虎松の生きる道を開くため、彼の生母の再婚相手となった徳川家家臣・松下清景の養子にして、松下虎松として徳川家に仕えるように仕向けました。そして鷹狩りの折に虎松は徳川家康の目にとまり、気に入られて「井伊」への復姓を許され「万千代」という名と300石を与えられたのです。

その後、徳川家家臣・井伊直政となった虎松を立派な武将にするため、南渓はさまざまな助言を与えました。そして直政もこの助言に見事に応え、「井伊の赤備え」と呼ばれる徳川家の中で最強の部隊を率いる武将になるまで成長します。
このように生涯を通して井伊家存続のために知恵を絞り、力を尽くした南渓和尚は1589年に他界しました。享年は80才くらいと伝えられています。

※参照:井伊直親ってどんな人?妻や今川氏真に討たれた背景とは?

南渓和尚が住職を努めた寺はどこなのか?


南渓和尚が住職を努めた寺は、静岡県浜松市井伊谷にある龍潭寺(りょうたんじ)です。このお寺の歴史は大変古く、寺伝によると奈良時代の733年に東大寺の大仏作りで知られる僧、行基によって開かれたとされています。当初は地蔵寺という名前でしたが、1093年に井伊家の初代当主、井伊共保(ともやす)が葬られた折に自浄寺と改められました。

そして戦国時代の1560年、井伊家第22代当主で直虎の父親である井伊直盛がこの寺に葬られた時に、直盛の法号から龍潭寺と改められました。名前の由来となった「龍潭」には「龍が棲む池」という意味があります。つまり直盛は死して後は龍となり、井伊家を護るという意味が込められているそうです。

1531年、南渓和尚の父親(または養父)とされる井伊直平によって、当時「自浄寺」と呼ばれていた龍潭寺が復興されます。そして南渓はこの時龍潭寺に招かれた黙宗瑞淵(もくしゅうたんえん)という臨済宗の僧の弟子になったとされ、やがて龍潭寺の2世住職を努める事となります。そしてこの寺を拠点として、一時は滅亡寸前にまで追い込まれた井伊家を立て直し、当主となった直虎、そして直政を支え続けました。

江戸時代になると、龍潭寺は井伊家の菩提寺として、幕府から朱印状を受ける形で存続します。幕府重臣・井伊家の菩提寺として、一万坪を超える広い境内には本堂や開山堂、総門や庫裏、霊屋などが建立され、また当時きっての作庭家、小堀遠州による「龍潭寺庭園」も造られました。龍潭寺庭園は四季それぞれで美しい風景を見る事が出来るので、観光などで一度は訪れておきたい場所と言ってもいいでしょう。

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南渓和尚と井伊直虎の関係はどのようなものだったのか?


最後に、南渓和尚と大河ドラマ「おんな城主直虎」の主人公である井伊直虎との関係について詳しくご紹介します。

この二人の関係ですが、「南渓和尚=井伊直平の実子説」を取った場合、直虎にとって南渓は大叔父にあたります。また1544年、婚約者である井伊直親が死んだと知らされた直虎は、南渓のもとで出家し、井伊家の惣領名を由来とする「次郎法師」という名を名乗るようになりました。次郎法師にとって大叔父・南渓和尚は導師であり、また師と仰ぐ存在だったのだと思われます。

また1565年、次郎法師が「直虎」と名乗り井伊家の当主となった時の後ろ盾には直虎の母親である祐椿尼、そして南渓和尚の姿があったと言われています。その後、直虎は龍潭寺に対する寄進状に自身の印を押してその領有を確認していますが、その後ろ盾として南渓の影響力は大きかったと思われます。

これ以外にも、南渓は直虎が井伊家の後継者である虎松(後の井伊直政)の後見役として振る舞う際も、一族の長老的な役割として振る舞ったのではいかと思われます。1564年に虎松を三河国にある鳳来寺に逃し、その10年後に井伊谷へ彼を呼び戻し、1575年に虎松を徳川家康の小姓として出仕させた時も、南渓は直虎と同じようにその役割を担っていました。

つまり直虎の業績は、ほぼ南渓和尚の事跡と同じと言っても過言ではないと考えられます。2016年12月、「直虎」と「次郎法師」が別人だったというニュースが報じられましたよね。仮にこの説が本当だった場合、直虎の業績と伝わっているものは、ほぼ南渓和尚の事跡と考えてもいいのではないでしょうか。

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この記事のまとめ


いかがでしたでしょうか。
南渓和尚とは?」という疑問が大分解決できたのではないかと思います。

最後に、この記事の内容をまとめてみました。

・戦国時代の井伊家を、南渓和尚は半世紀に渡って支えてきた
・井伊直親、直政の生死の危機を救った事もある
・南渓和尚が住職を務めたのは龍潭寺(りょうたんじ)というお寺
・井伊直虎(次郎法師)にとって、南渓和尚は大叔父にあたる



なお、以下の記事では井伊直虎が男だったという説について紹介しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:井伊直虎が次郎法師や女地頭と呼ばれた理由は?実は男だった!?