秀吉の跡継ぎとして関白の地位についた豊臣秀次ですが、関白としてはどのような事を行っていたのでしょうか。
実質的には秀吉の影響下にあったのか、それとも独自の権力基盤を持っていたのか…
また、秀次死後の関白職はどうなったのでしょうか。豊臣秀次を「関白」という役職から見ていくと共に、その後の関白がどうなったのかをご紹介します。
豊臣秀次の関白職は、秀吉の影響が強かった
豊臣秀次は1591年に、秀吉の跡を継ぎ関白に就任しています。
秀次の関白就任は突然のものでした。実質の鶴松をわずか3歳で亡くした秀吉はもう嫡男を望めないと考え、養嗣子となっていた秀次の官位を権大納言、内大臣と急遽引き上げています。
その後、秀次は関白に就任して、同時に豊臣氏の家督を継ぎました。
しかし、関白就任以後の秀次は、秀吉の定めた「御法度」「御置目」に従って政務を行っていたので、実質的に秀吉が支配する体制のままでした。
秀次の基盤はもろかったのかもしれません。
そのためなのか、秀頼が産まれると秀次は失脚しています。
秀次に実力がなかったとまでは言うつもりはないのですが、彼の関白就任は、実力で選ばれたというよりも他に候補者がいなかったためと判断した方がいいと思います。
※参照:豊臣秀次ホントに有能?生きていれば豊臣政権はどうなった?
関白としての豊臣秀次が行った事とは?
それでは、豊臣秀次は関白としてどのような事を行ったのでしょうか。
関白を継いだ秀次は、家臣団とともに国内の政策を進めていました。また、前田利家、前田利政、佐竹義宣、里見義康、村井貞勝、真田昌幸らの官位授与・昇叙に対しては、関白の秀次の同意が求められるなど、秀吉とは異なる権力者としての存在感を放っています。
他にも秀吉の隠居地とされた伏見城(指月城)の築城や大政所の葬儀などが秀次主導で行われおり、諸大名や当時の社会に対する彼の影響力はそれなりにあったのではと思われます。
先ほど「実質的に秀吉が支配する体制のまま」と述べましたが、このように秀次の権力も増加していった節も見られます。「関白」という役職の影響力はかなり強かったようで、秀吉の管理下を離れる節もあったようです。
この事が、秀吉が秀次を切腹に追い込んだ原因なのかもしれません。
ただ、秀吉が秀次に関白を継がせたのは、秀次に権力を持たせるのではなく、あくまで自らの権力を示す意味合いがあったと感じています。本来であれば、秀吉が担当すべき事案を秀次が行っていることから、秀吉から秀次への関白の世襲を知らしめたかったのでしょう。
この事が上手くいかなかった事を、もしかしたら秀吉は後悔していたのかもしれません。
もっともこの辺りは諸説あり、今後の研究が待たれるところですね。
豊臣秀次の死後、関白はどうなったのか?
それでは、秀次の死後、関白はどうなったのでしょうか。
豊臣秀次の死後、豊臣家を継ぐのは、秀吉の幼い息子秀頼でした。
秀吉は秀頼の成人後に関白就任を考えていたようです。秀吉が死に、関ヶ原の戦いの後も、朝廷は秀頼が関白に適任な存在であると考えていました。しかし、大坂の陣で豊臣氏は滅亡してしまったため、秀頼は関白になれないまま一生を終えてしまいました。
豊臣秀次を排除したものの秀吉の願い通り息子が関白に就任することはありませんでした。
秀吉の行動は、自分の首を絞め、豊臣家を追い詰めるだけであった気がします。
その一方で、1601年にはかつて関白を務めた九条兼孝が再度関白に任命されています。
その後、江戸時代以降の関白は、藤原氏の流れを受け継ぐ五摂家が継いでおり、武家が関白に任命される事はありませんでした。
※参照:藤原道長の子孫は現代にもいる?五摂家とは?
この記事のまとめ
関白としての豊臣秀次について解説してきました。
関白に就任した豊臣秀次は、その職責を果たしていたようです。
しかし、養父である秀吉主導は変わらなかったのか、それとも独自に政務を進めたのが秀吉の怒りに触れたのか、最終的には地位をはく奪されています。
秀次の死後も、豊臣家は朝廷から関白を継ぐものと信頼されていましたが、この役職は藤原家の流れを汲む五摂家が継承しており、その後武家から関白になる人物は出てきませんでした。
豊臣秀次という人物は、まだ明らかになっていない部分も多いようなので、今後の研究が待たれるところですね。
秀次が関白のまま、生きていたら、豊臣はもっと残っていたかもしれません。家康は秀頼が関白になることを一番警戒していたと言います。大阪の陣を無理やり行ったのも、秀頼が関白になる前に豊臣家を滅ぼしたかったからだと言われています。秀次が関白であったら、家康に命令する立場にあり、家康の出る幕はなかったかも。