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2020年に放送された大河ドラマ「麒麟がくる」を見たことはありませんか?
このドラマの主人公が、この記事で取り上げている明智光秀(あけち みつひで)という戦国武将です。

本能寺の変で信長を倒したことでも有名な明智光秀。いったいどんな人だったのでしょうか。

年表も使いながら、信長を倒した本能寺の変についてもわかりやすく説明します。

調べ学習などに役立ててみてくださいね!
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明智光秀はどんな人だったのかをわかりやすく解説


明智光秀は1528年に美濃国(現在の岐阜県)に生まれました。

はじめの頃は斉藤道三(さいとう どうさん)という戦国大名に仕えていましたが、道三が滅ぼされたのちは浪人となり、いろいろな場所を転々とする生活を送ります。

光秀はこの時に鉄砲などの最新の技術や、和歌といった教養を身に着けました。2020年には、医者の仕事をしていたのでは?という研究が発表されたことも話題になりました。光秀は頭がよくて品のある人だったと言えそうですね。


1569年ごろに織田信長の部下になります。
信長35歳、光秀41歳のときでした。
信長は光秀の頭のいいところや、物知りなところを気に入ったようです。

信長にとっての光秀は、子どもの頃を一緒に過ごしてきたほどの部下ではありませんでした。
(いわゆる「新参者」でした)
しかし信長は、優秀な人物はどんどん引き立てるタイプだったので、頭のよく、室町幕府の人にも知り合いが多い光秀は信長に大事に扱われました。

そんな中、光秀は比叡山延暦寺焼き討ちや長篠の戦いなどの有名な戦に加わるとともに、政治の面でも活躍し、信長の部下の中でもどんどん出世していきます。1580年ごろには、近畿地方を預かる武将のトップにまで登りつめました。

しかし、1582年に信長を本能寺で襲いますが(本能寺の変)、そのわずか十数日後に同じ信長に仕えていた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に山崎の戦いにて敗れ、死亡しました。

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明智光秀の年表をわかりやすく解説


続いて、明智光秀の年表をわかりやすくご紹介します。


1528年(0歳)
美濃国(現在の岐阜県)に、明智城城主・明智光綱の長男として生まれる。


1535年(8歳)
父親の明智光綱がなくなり、明智家の家督をつぐ。
まだ幼かったので、おじの明智光安が後見人となる。


1556年(28歳)
長良川の戦いが起こり、斎藤義龍が明智城を攻める。
おじの光安は戦死。
一族は離れ離れとなり、光秀は浪人となる。


1556年~1565年(28歳~37歳)
浪人となり、各地を転々とする。
その後、越前(今の福井県)の大名、朝倉義景に仕える。


1563年(35歳)
娘の玉(後の細川ガラシャ)が産まれる。


1569年(41歳)
このころ、織田信長に仕える。

※参照:織田信長の年表を小学生でもわかるように簡単にまとめてみた


1571年(43歳)
織田信長が比叡山延暦寺焼き討ちを行う。
光秀は実行部隊として武功を挙げる。


1572年(44歳)
働きが認められ、近江国(現在の滋賀県)に5万石の領地を与えられる。
琵琶湖の近くに坂本城を建てる。


1577年(49歳)
丹波方面(現在の京都府の一部と兵庫県の一部)を攻めるよう命令される。


1579年(51歳)
丹波国を平定する。
功績が認められ、丹波国29万石を追加で与えられる。


1582年(54歳)
羽柴秀吉(=豊臣秀吉)とともに中国地方を攻めるように命令される。
進軍の途中に軍隊を引き返し、織田信長が宿にしていた本能寺を襲う(本能寺の変)。
信長死亡の知らせを聞いて中国地方から引き返してきた秀吉軍と戦い、敗北(山崎の戦い)。
逃げる途中に襲われて死亡。

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明智光秀が活躍し、歴史に名前を残すようになるのは、織田信長に仕えてからであることがわかります。信長の主だった戦いに参加し、新参者の中では出世頭であった光秀ですが、どうして主君である信長を襲う決意をしたのでしょうか。次の章でくわしく見てみましょう。

本能寺の変をわかりやすく解説


本能寺の変とは、1582年に明智光秀が主君である信長を裏切った事件のことを言います。

近畿地方を支配下におさめつつあった信長は、中国地方を自分のものにしようと考え、羽柴秀吉らを向かわせます。光秀も秀吉とともに戦うため自分の軍隊を丹波(現在の京都府から兵庫県あたり)まで進めますが、突然軍隊を引き返し、信長がいる本能寺に襲いかかります。

この時、本能寺に向かう途中の光秀が言ったとされるのが「敵は本能寺にあり!」という有名な言葉です。光秀に襲われた信長は自ら槍を持って戦いますが、勝ち目がないと分かった後に自害しました。


本能寺の変の後、光秀は信長の嫡男・信忠(のぶただ)も攻め、信忠も自害してしまいます。

信長と信忠という2トップを失った織田家は急におとろえてしまい、この11日後におこった山崎の戦いで光秀をたおした羽柴(豊臣)秀吉が天下人になる大きなきっかけとなりました。

※参照:豊臣秀吉の年表をわかりやすい形で簡単にまとめてみた

明智光秀が本能寺の変をおこした理由は?

気になる光秀が信長を襲った理由ですが、いまだに明らかになっていません。

そのため、

・光秀は日頃から信長に恨みを抱いていた
・自分の地位が不安定だと感じた
・天下人になりたかった
・秀吉や家康と手を組んでいた
・足利家や朝廷などに頼まれた


こうした色々な説が考えられています。


最近では、四国の大名・長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)を攻めようとした信長の考え方に反発したため、という「四国説」が有力になっています。光秀は長宗我部元親と仲が良く、元親を攻めようとする信長に対して、恨みや恐れを感じたのでは?という説です。

また、本能寺の変がおこった時、秀吉など信長の主な家臣は遠くで戦っていたので、近畿地方にはいませんでした。近くに警戒する同僚がいなったことは、光秀にとっては信長を討てる絶好のタイミングだったのです。
日頃の恨みを晴らす、もしくは自分の野望を実現するには今しかない!と考えたのかもしれません。

光秀が信長に仕えるまでに色々な人のもとを渡り歩いていたことや、信長軍の中では新参者だったことも考えると、どの説も当てはまりそうで、1つに絞るのがなかなか難しいですよね。

この記事のまとめ


明智光秀はとても頭がよい人物で、信長にもそこを見出された人でした。
目立った活躍を見せるのも信長に仕えてからのことであり、光秀が歴史の舞台に出てきたのは、信長のお蔭なのかもしれません。

そんな明智光秀が最も有名になったのは、やはり本能寺の変で信長を襲ったからでしょう。


なぜ、光秀は信長を襲ったのでしょうか。

光秀がどんな人だったのか、どんな人生を歩んできたのか、今回ご紹介した情報を頼りに、あなたなりに推理してみると面白いかもしれませんね。


ちなみに秀吉との戦いに負けた後、明智家は滅亡しますが、細川家に嫁いだ娘の玉(細川ガラシャ)は生き延びています。
細川ガラシャについては以下の記事で解説してますので、興味があればご覧になってみてください。

※参照:細川ガラシャは美人だった?年表や辞世の句の意味について!