豊臣秀吉の側室であり、関ヶ原の戦いや大阪の陣でキーパーソンとして挙げられる淀殿。
大河ドラマでも多くの女優さんが演じられているので、名前を聞いたことがある方も多いのではないかと思います。

実はこの淀殿、日本三大悪女の一人として数えられているのです。
一体なぜ、彼女が稀代の悪女となったのでしょうか。

淀殿の性格や、「淀君」という通称の意味と共に、彼女の人物像について考えます。

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ヒステリック?思慮深い?淀殿の性格とは


一般に、淀殿の性格は勝ち気で気位が高く、ヒステリックであったと言われています。

その裏付けとしてよく挙げられるのは、徳川家康とのやり取りです。


当時家康が、淀殿と秀吉の子供である豊臣秀頼に、二条城への上洛を求めたことがありました。しかし、この求めを聞いた淀殿は断固拒否。

無理に上洛を強いるならば、秀頼を殺して私も死ぬ

とまで宣言したといいます。


また、大阪の陣でも家康に激しく抵抗したとされており、徳川家に対して毅然とした態度を取っていたのは明らかです。


しかし近年では、大阪冬の陣の真っ只中、人質として江戸に下ることに同意をしていた資料や、大阪城側の牢人たちを養うための禄の加増を徳川方に求めたという資料も見つかり、実は思慮深い人物ではないか、と変わった見方も出てきています。


また、淀殿は心優しい性格であったとも言われています。

父の浅井長政や母であるお市の方を弔うために「養源院」という寺院を設立したことや、信長の側室であるお鍋の晩年をあわれんで50石を与えて生活援助をしたというエピソードが伝えられています。他にも、淀殿の命日に侍女たちが墓前で集まって供養していたという逸話も、淀殿のイメージを覆すエピソードとして挙げられます。

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淀殿が悪女となった理由とは?


そもそも、なぜ淀殿は「悪女」と呼ばれるほど、後世その性格などが悪く言われるようになったのでしょうか。

その一番大きな理由としては、大阪の陣で徳川家康に抵抗したことで、結果、豊臣家を滅亡に導いたと言われることでしょう。
当時は関ヶ原の戦いも終わり、時代は徳川の時代へと移り変わりつつありました。その中で女性ながらに毅然と抵抗することからも、彼女の気位の高さが見て取れます。

さらに、勝ち気であったと言われる淀殿と、豊臣秀吉の正室である北政所は激しい対立関係にあり、この関係が関ヶ原の戦いの発端の一部では、と考えられているようです。
これは近年では、逆に淀殿と北政所は連携していたのではないかという説も出てきています。

しかし、淀殿の人間関係が歴史の大きな出来事に関連していることは間違いないようです。


また、これまで実子のいなかった秀吉の子供を身ごもったことにより、不義の噂が当時から流布していたようで、これも悪女と言われる一端を担っているのではないでしょうか。

※参照:石田三成と茶々(淀殿)の関係について。鶴松や秀頼は三成の子供!?

「淀君」の意味って?遊女に付けられる名前だった?


また、淀殿は「淀君」と呼ばれることも多いのですが、これは一体なぜなのでしょうか。

まず、淀君の「」とは、当時の遊女のことを「遊君」「辻君」と言った事から名付けられたものであり、少なくとも彼女が生きていた時期の資料に「淀君」という二文字は一切見られません。


「淀君」という名称は、明治時代の坪内逍遥の戯曲「桐一葉」が上演されて以降定着したものです。

この作品は、大阪の陣が起こる前に豊臣家の家老を務めていた片桐且元が、当時、事実上の大阪城の城主であった「淀君」に城を追い出される過程を悲劇として描いた作品なのですが、この作品における彼女のイメージが、淀殿のことを「淀君」と言うようになったとされています。

※参照:片桐且元をwiki風に解説。墓所や子孫の存在は?


淀殿の悪女のイメージと「遊君」「辻君」といった遊女の呼び名が合わさり、「淀君」という名称に至ったという説があります。

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この記事のまとめ


・徳川家康にも毅然と対応した芯の強い性格
・人間関係が歴史の大きな出来事に関連している
・悪女のイメージから、後年成り立った「淀君」という呼び名


この3つから、淀殿の悪女のイメージが現在までも強く続いているのではないでしょうか。
近年では新しい発見や、新説もたくさん出てきているため、今後、彼女のイメージがどう変わっていくのか楽しみですね。


ちなみに以下の記事では、淀殿の2つの生存説について解説しています。薩摩へ落ち延びた説の他に、なぜか上州へ逃れたという説があるのですが一体どういう事なのでしょうか。興味があればご覧下さい。

※参照:淀殿の大坂の陣における行動やその最後。生存説が2つも!?