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江戸幕府を開いた徳川家康。
その徳川家には菩提寺が二つ存在するのをご存知ですか?

家康によって徳川家の菩提寺と決められた増上寺(ぞうじょうじ)と、家康の死後、徳川家光によって創建された寛永寺(かんえいじ)です。

ではなぜ徳川家には菩提寺が二つも存在するのでしょうか?
今回はこの徳川家の二つの菩提寺について詳しく見ていきたいと思います。
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徳川家の菩提寺が2つある理由とは?


家康が小田原攻めの論功行賞で関東に移行してきた後、菩提寺を探し始めることになるのですが、その時に徳川家と思想が同じであった関東にある浄土宗の増上寺を菩提寺にと決めます。

家康が菩提寺を増上寺に決めた理由は、家康がたまたま増上寺の前を通りがかった時に住職の源誉存応上人と対面し、その思想に家康が深く感銘を受けたからだと言われています。
一方で、増上寺は室町幕府の僧侶・聖聡(しょうそう)によってその基礎が築かれたと言われてますが、この聖聡の弟子には家康の祖先にあたる松平親忠の四男・存牛(ぞんぎゅう)がいたと伝わっています。つまり、増上寺は室町時代から徳川(松平)家と繋がりのある寺院だったのです。

次にもう一つの菩提寺・寛永寺ですが、これは家康の死後に天台宗の僧侶・南光坊天海によって建てられたと言われています。この天海は頭脳明細で博識豊かな人物であったと言われ、一説ではあの明智光秀が実は生き残っていてその成れの果てがこの天海なのではとも言われている人物です。

頭の切れる天海は家康の生前から徳川家の重要人物となり、家康の死後も二代将軍・秀忠、三代将軍・家光にも気に入られ重用されていくこととなります。
こうして徳川家での権力を手にした天海の薦めで寛永寺が建立されることになりました。

最初祈願時でしかなかった寛永寺でしたが、天海に陶酔していた家光が葬儀をこの寛永寺で執り行ったり、その後も四代将軍・家綱や五代将軍・綱吉が続けて葬儀を行ったことから寛永寺も徳川家の菩提寺となりました。

しかしこれに反発した増上寺の計らいで、六代将軍・家宣と七代将軍・家継の墓所を増上寺にした後は、その後の歴代の将軍たちを二つの寺を交互に葬ることとなりました。

それで徳川家には菩提寺二つ存在していたのですね!


ただ、徳川家最後の将軍となった慶喜は大政奉還後、華族となり将軍としての最期を迎えることができなかったために、どちらの菩提寺にも入ることなく東京都の谷中墓地に眠っています。

※参照:徳川慶喜ってどんな人?年表や大政奉還を小学生向けに解説!

増上寺ってどんなお寺?場所はどこにあるの?

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ここからは、それぞれの菩提寺について詳しく見ていきましょう。
まずは増上寺から。

増上寺は浄土宗七大本山の一つに数えられ、室町時代に酉誉聖聰上人によって現在の東京都千代田区平河町近郊に「浄土宗正統根本念仏道場」として創建されました。

1590年に当時の住職であった源誉存応上人と徳川家康とが師檀関係を結び、2年後に芝の地に移転。江戸幕府成立後には家康の手厚い保護により大隆盛していきます。
その後、朝廷から存応上人が「普光観智国師」号を賜りました。

家康の死後、葬儀を執り行ったことから正式に徳川家の菩提寺となります。

その後寛永寺と交互に歴代の徳川将軍の墓所を設けることになるのですが、この増上寺に眠っているのは以下の7人の将軍になります。

二代・秀忠
三代・家光
六代・家宣
七代・家継
九代・家重
十二代・家慶
十四代・家茂


なお、増上寺は江戸時代、広大な寺有地を誇る大きな寺であったとされ、3000人以上の学僧がいたのだとか。その後、江戸大火や大政奉還・先の戦争での東京大空襲などを乗り越え現在の増上寺に繋がっていると言われています。

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寛永寺について詳しく解説。建てられた理由は?

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一方の寛永寺は、寛永2年(1625年)に慈眼大師天海大僧正によって創建。家康、その息子の秀忠、三代将軍である家光と三代に渡る帰依を受け、徳川幕府の安泰と万民の平安を願う祈願時として建てられました。

寛永寺のトップ(住職)には皇族が法親王という形で就いていた事で知られています。そしてその多くが、天台宗のトップである天台座主を兼ねており、その権威は徳川御三家の当主と同等であったと言われています。

※参考:徳川御三家の現在とは。尾張・紀伊・水戸の末裔はどんな人?

最盛期には境内に現在の上野公園を含む約三十万五千坪を有し、約一万二千石の寺領を誇っていました。後に徳川家の菩提寺も兼ねた霊廟も造営され、自国最大級の寺院となります。

しかし、幕末におこった戊辰戦争では戦場と化し大部分を焼失したり、その後も関東大震災や太平洋戦争の空襲で被害を被るものの、これらを乗り越え、戦後に霊園を造営して徳川家の菩提寺として相応しい寺院として現在も存在しています。また、寛永寺は重要文化財に指定された史跡や宝物を残し、その歴史や伝統を私たちに伝えてくれています。

幕末に第十五代将軍・徳川慶喜が謹慎蟄居したとされる「葵の間」、歴代将軍宝塔は当時のまま現在も保存されており、徳川家ゆかりの寺院であることが今も伝わってきます。

そして、この寛永寺に眠る歴代の徳川将軍は以下の六人の将軍です。

四代・家綱
五代・綱吉
八代・吉宗
十代・家治
十一代・家斉
十三代・家定


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この記事のまとめ


徳川家の菩提寺である増上寺と寛永寺についてご紹介しました。
まとめると、以下のようになります。

増上寺:室町時代から存在。家康が菩提寺に定める。
寛永寺:徳川家光と天海が創建に携わる。皇族が住職を務める。

増上寺と寛永寺との間で確執はあったものの両寺とも徳川家の菩提寺として、その後歴代の将軍たちはこの二つの菩提寺に交互に眠ることとなりました。その一方で、最後の将軍となった慶喜だけは、最期を華族として迎えたためどちらの寺にも葬られることはなく、東京都の谷中霊園の現在も眠っています。