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加藤清正と言えば、賤ヶ岳の七本槍の1人として若い頃から秀吉に仕え、その後も豊臣家に尽くした忠臣として現在でも人気を集める武将として知られいる一方、熊本城のことを思い浮かべる方も多いと思います。

この記事では、加藤清正の熊本城の関係についてより深く掘り下げてみました。


また、清正の築城技術の特徴や、熊本城に隠された豊臣秀頼に関する伝説などについてもご紹介します。
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加藤清正の熊本城の関係について詳しく解説!


加藤清正と熊本城の関係は1588年に遡ります。


もともと熊本城は「隈本城(くまもとじょう、読みは同じ)」と呼ばれており、他にも付近に千葉城といった城が存在していました。


この隈本城と千葉城をまとめる形で、清正は1591年から城郭を築きはじめ、1600年には天守閣が完成したと伝わっています。



その後、清正は1606年に城の名前を「隈本城」から「熊本城」へと改称。


熊本城はこれ以降も建築や修理がたびたび行われたと言われており、清正の子・加藤忠広が改易されその後で細川家がこの城に入った後も改築や修繕は引き続き行われました。



また、熊本の方の加藤清正に対する畏敬の念は当時からあったようで、加藤家の改易後、この城に入場した細川忠利も地元の方々の感情を汲みとったのか、熊本城へ入城する際は清正の位牌を先頭にかざし、清正が祀られている邦楽へ向かい、「あなたの領地をお預かりします」と述べたそうです。


その後、江戸時代を通して熊本城を治めていたのは細川家だったのですが、清正に対する地元の方々の畏敬の念は続いたようで、1867年の西南戦争で熊本城の天守が焼けた際も、地元の方々は「清正公の城が燃えている…」と悲しんだと伝えられています。


熊本城を語る上で、加藤清正という人物を外すことは出来ないエピソードですね。

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熊本城から分かる加藤清正の築城技術の特徴とは?


また、この西南戦争で熊本城に攻め込んだ西郷隆盛はついにこの城を攻め落とす事が出来なかったのですが、彼はその際「自分は官軍ではなく清正公に負けたのだ」と述べたエピソードも有名です。


このエピソードの裏にあるのは、加藤清正の築城技術が素晴らしかったということ。


清正は当時から「築上の名手」として知られており、熊本城の他にも名護屋城や江戸城など、数多くの築城に携わった事でも知られています。



彼は特に石垣造りが得意だったようで、これは熊本城の石垣にも当然表れています。


熊本城の石垣の特徴として、下部が緩やかなのに対し、上にいくについれ傾斜が垂直になるという「武者返し」と呼ばれるものを採用している事が挙げられます。


清正がこの石垣造りを身に付けたのは朝鮮出兵時だそうで、また実際のこの武者返しは南の薩摩藩に備える形で建設されおり、城の南部の石垣が非常に強固になっています。


そしてこの仕組みが、西南戦争で西郷隆盛が熊本城を落とせなかった理由の1つとも言われており、上で解説した「自分は官軍ではなく清正公に負けた」というセリフに繋がっていく…といった感じになります。

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熊本城に隠された豊臣秀頼に関する伝説とは


また、加藤清正と熊本城の関係における逸話の1つとして、豊臣秀頼に万が一の事があった場合、秀頼を熊本城に匿い、家康と一戦交える事を考慮していた、といったものがあります。


熊本城の本丸の最深部には、「昭君の間(しょうくんのま)」と呼ばれる城内で最も格式高い部屋があるのですが、実はこの「昭君の間」は「将軍の間」の隠語であったという説があります。



この昭君の間、実際には藩主の生活の場として使われていたようですが、この部屋には城外への隠し通路があったとされ、城が落ちた時に秀頼を逃がせるために作ったのではないか、という噂が当時から存在していたようです。


ちなみに昭君の間の「昭君」とは、古代中国の絶世の美女、王昭君の事を指しており、実際にこの女性の姿が部屋の壁に描かれています。



なお、この昭君の間は西南戦争の際に天守ごと消失してしまい、現在残るものは1960年に再建されたものになります。


加藤清正が、この昭君の間に秀頼を本当に匿う気があったのかについては今となっては分かりませんが、これらの事実や噂を考慮すると、少なくとも可能性の1つとして考えていた可能性はあったのでは?と個人的には思っています。

この記事のまとめ


加藤清正と熊本城の関係について、理解していただけましたでしょうか。

1588年に熊本城へ入った加藤清正は、得意の築城技術を活かしてこの城をより堅固なものに変えていきます。

清正の築城技術ですが、石垣造りが得意であったとされ、この石垣が西南戦争で西郷隆盛が熊本城を落とせなかった事にも繋がってくるのです。また、清正は主君である豊臣秀頼に万が一の事があった場合、場内の「昭君の間」という場所に秀頼を匿い、徳川家康と一戦交える覚悟があったとも伝えられています。

熊本城、そして熊本県を訪れた際には、加藤清正について思いを巡らしてみて下さいね!



追伸

以下の記事では、清正を含めた「賤ヶ岳の七本槍」のメンバーについて解説しています。彼らの子孫についても詳しくまとめているので、興味があればご覧になってみて下さいね。

※参照:賤ヶ岳の七本槍のメンバーまとめ!その後大名になれた者は?