豊臣秀次と言えば、秀吉の甥として関白になったものの、豊臣秀頼の誕生を機に秀吉から遠ざけられ、最終的には一族もろとも処刑された悲劇が有名な歴史人物です。

この豊臣秀次ですが、最近では「実は有能だったのでは?」という再評価の声が高まっている傾向にありますが、実際のところはどうだったのでしょうか。


また、豊臣秀次が生きていれば豊臣政権はどうなったのでしょう。

この点についても同時に検証してみました。

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豊臣秀次はホントは有能?それとも・・・


豊臣秀次は、果たして「有能」と言えるほどの武将だったのでしょうか。

軍事面と内政面に分けて考えてみましょう。

豊臣秀次の軍事面における才能とは


まず秀次の軍事面と言えば、小牧長久手の戦いで徳川方に致命的な敗北を喫し、以前はこれが「豊臣秀次=無能」という説の根拠になった事もあったそうです。ただ、翌年の雑賀征伐における千石堀城の戦い、四国平定における岩倉城の戦いでは秀次はそれなりの働きをしています。

また、小田原征伐においても秀次は7万の兵を率い、4千の兵力が守る伊豆の山中城を半日で攻め落とした事跡もあるのですが、7万と4千ではその兵力差は明らかであり、この点は特に褒めるべき点ではないでしょう。


こうした点を踏まえると、秀次の軍事面の才能は「ごく普通」なのでは?と思います。

小牧長久手の戦いにおける失態はあるものの、勝つべき所ではきちんと勝っており、最低限備えておくべき軍事面の才能はあったと考えてもいいのではないでしょうか。

豊臣秀次は内政面では有能だった?


一方、政治家としての秀次の才能はどうだったのでしょうか。

四国平定後、秀次は恩賞として現在の近江八幡市付近に43万石の所領を、山内一豊や田中吉政ら宿老を付ける形で与えられています。秀次が与えられた所領とその居城である八幡山城は、かつて信長が築いた安土城があった場所と近かった事から、秀次はかつて安土城下に住んでいた人々を八幡山城に移住させ、その城下町を形成していったとされています。


実際の政務はについては、上水下水の整備や悪代官の取り締まりなど善政を敷いたそうです。結果として城下町は大いに発展し、後に大丸松坂屋や西武、住友商事や伊藤忠、丸紅など現在でも残る大手企業を排出した近江商人は、秀次が形成した城下町から生まれたと伝わっています。秀次の政治は現在に至るまでその影響を与えていると言ってもいいかもしれません。


もっとも、当時の秀次は当時10代後半。

実際の政務は彼の家老が取り仕切ったそうですが、こうした人々を使いこなす事がトップの仕事だとすると、内政面における秀次の才能はそこそこ有能だったと捉えてもいいのではないでしょうか。

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豊臣秀次が生きていれば豊臣政権はどうなった?


豊臣秀次の評価については、決して有能とは言えないものの、与えられた仕事は家臣の意見を取り入れる形で無難にこなすタイプだったのではないでしょうか。

もし生きていれば有能な政治家になり豊臣政権は安泰したのでは…?という風に考えたくもなってしまいます。


では、豊臣秀次がもし生きていれば、豊臣政権はどうなったのでしょうか。


こうした質問には答えがないので個人的な意見を述べると、日本は戦国時代に逆戻りし、豊臣政権はかつての室町幕府のように単なる権威的な存在になったのではないかと思います。


まず、秀次が仮に生きていた場合、秀頼との関係次第で豊臣政権、そして秀次本人の行く末は大分変わっていたでしょう。


秀次が、秀頼に関白の座をただちに譲っていた場合は豊臣家の有力な一門として秀頼を支えていたかもしれませんし、逆に秀頼が成人するまで秀次が関白を務めた場合、秀頼に関白座を譲る気があるかが焦点になってきそうです。


秀次には当時、千千代丸という男子がいた事から、秀頼を差し置いて実子に関白を継がせる可能性も大いに考えられます。

この2人の関係を全国の大名が漬け込み、結果として戦国時代に逆戻り…という可能性もあり得なくはないでしょう。

※参照:豊臣秀次が関白として行った事は?その後の関白はどうなった?



また、秀次本人に日本全国を統治できる能力があったかも疑問です。

有能な政治家に大化けする可能性もありますが、これとは逆に全国の大名を統制できず、結果として豊臣政権の威信は低下したのでは?という気もします。特に、秀次の切腹のきっかけとなった毛利輝元や懇意にしていた伊達政宗、妻の実家である池田輝政や最上義光あたりの動向が気になりますね。

少なくとも、仮に豊臣政権が安泰だとしても、五大老の面々は史実とは異なる顔ぶれになる可能性は高い気がします。


他に気になるのは徳川家康の動向です。

史実では、秀次事件に関係して何かしら処罰を受けた多くの大名が徳川家康の助けを受けた事が、彼らが関ヶ原の戦いにおいて東軍に属するきっかけになったと言われています。しかし、秀次が処罰されない以上、史実の関ヶ原の戦いの時点ほど、当時の家康は力を持っていない(それでも200万石以上の大大名である事に変わりはありませんが…)事になります。

もし、秀次と秀頼の間に何かしらの争いが発生した祭、家康がどちらに付くかによって豊臣政権の行く末はかなり違ったものにもなりそうな気がします。

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この記事のまとめ


豊臣秀次は実は有能だったのかそれとも無能なのか、および生きていれば豊臣政権がどうなったかについて考察してみました。

秀次は28歳で亡くなっているため、その力量については今後伸びる余地は十分にあったと思います。軍事、内政ともに家臣の補佐を受けて一定の結果を出しているので、この習慣を続ければ、家臣を上手く仕える有能な後継者になったのでは?という気はします。

歴史において、「もしも」を考えるのはキリがないですが、やはり考えてこうして自分の考えを文章として書くのは面白いですね。


ちなみに以下の記事では「豊臣秀次の両親とその子孫」というテーマで解説しています。実は秀次には「父親が4人もいた」とも言える人物なのですが、これは一体どういった事なのでしょうか。興味があればご覧になってみて下さい。

※参照:豊臣秀次の「4人の父親」とは?実の母親やその子孫について!