細川ガラシャ

戦国一の美女とも伝えられた彼女の半生は、とても儚く悲しいものでした。
そんな彼女の夫は戦国大名・細川忠興

ガラシャといえばこの夫の執拗な嫉妬と束縛によりつらい生活を強いられたとのイメージが強いのですが、その一方で相思相愛の間柄であったとも…
その夫婦関係はいまだに謎に包まれています。
また、細川ガラシャには子孫はいたのでしょうか…

そこでその真相を自称“戦国時代をこよなく愛す歴女”の私が紐解いてみます!

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ガラシャの夫は誰もが羨むハイスペ男子!でもちょっと…!?


ガラシャの夫・細川忠興は文武両道のいわゆる“デキる男”でした。
あの織田信長に仕えて何度も武功を挙げ、戦国一の名将と呼ばれています。

※参照:細川忠興と織田信長の関係は?家紋や甲冑についても解説!


そもそもこの忠興、幼いころから信長には可愛がってもらっており、尊敬する御方の為ならばと若くして戦にも進んで参加!
結果、信長から直筆の手紙をもらい「今後もますます働き、手柄を立てるよう頑張って欲しい」と言わしめるほどの戦の天才に成長します。

当時の戦国大名たちは自分で文を書くことは稀で、そんな中あの信長が直筆の手紙を送るというのはそれだけでもスゴイことなんです。
この事から、忠興がどれだけ優れた武将だったのかがうかがい知れるのではないかと思います。

しかも忠興は、戦国時代一の教養の持ち主だったとされる父、細川幽斎の影響か、かなりハイレベルの文化人でもあります。
かの千利休に師事し、利休七哲の一人にも数えられているほど。


ここまでみるとなんとパーフェクトでスキルの高い男だろうと感心してしまいますが、信長の紹介でのちにガラシャとなる明智玉と結婚したことで彼は嫉妬と束縛の鬼へと変貌していくこととなります。

ちなみに、忠興は彼女と結婚する前から戦国を代表とする冷酷・非道な武将としても名高く、当時ちまたでは天下一短気な男と噂されていたんです。

気に食わないとすぐ手が出たり、刀を手にする癖があったようで…

子供の頃から弟の興元が優れていると他人に言われただけでその弟に殴りかかったり、戦でも倒した相手方の敗残兵を皆殺しにしたり。
しかもその時の相手は妹の夫、つまり義弟であったのだとか…

このことから身内にも容赦ない非道な男であったことが分かりますよね?


でも尊敬する信長には高価な贈り物を献上したり恩を重んじる部分もあったりします。

疑り深い私は、いやいや…上司にゴマ擦りしてるだけなんじゃ??
と思ってしまうのですが・・・(笑)

ある時「この丹後は父(細川藤孝)ではなくお前(忠興)のものだ!」と信長に言われた際に泣いてしまったという話から、本当は義理人情に厚い男ではあったのかなとも…思えなくもありません。

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夫は元祖ヤンデレ男!?その異常なまでの愛とガラシャの苦悩


ではまず、忠興の妻である彼女はガラシャと呼ばれていますが、彼女はハーフ美女や外国の方ではなくれっきとした日本人です。

本名は明智玉。
実は彼女、かの有名な明智光秀の娘!

信長の勧めで結婚した二人は仲睦まじく本当に仲の良い夫婦だったそうです。
実はあまり知られてはいませんが、忠興もガラシャに負けず劣らずけっこうな美男だったようで二人は戦国きっての美男美女夫婦であったと言われています。
君主の信長にも「人形のように可愛い夫婦」と言われていたのだとか。

そして結婚の翌年には長女が、そのまた翌年には長男が生まれています。
才色兼備なガラシャは義父にも可愛がられており、妻を心底愛する忠興も側室は置かなかったため本当に幸せな生活をしていたと考えられます。


しかし、本能寺の変で状況は一変します。
君主信長に対し明智光秀が謀反を起こした話はあまりにも有名ですよね。
光秀は娘婿である忠興に助けを求めるのですが、信長に絶対忠義の興忠がそれを快諾するはずもなく光秀は亡くなってしまいます。

この件で“逆臣の娘”となってしまったガラシャは幽閉されてしまうのです。


でも本当ならこの時代、ガラシャは離縁もしくは最悪の場合自害という残酷な現実が待っているはずでしたが、忠興は愛する妻を手放すことはせず幽閉するだけにとどまりました。

これが愛する故のことと捉えていいのか否か…
ここから忠興は戦国きってのヤンデレ男への階段を上っていくこととなります。

幽閉されている間は次男が誕生するなどまだ幸せなのかな?と思わせてくれるのですが、幽閉が解けて大阪の屋敷へと戻ってきてから忠興のガラシャへの束縛がヒートアップ…

しかも四六時中監視するという徹底ぶり。

しかも忠興は出掛ける際に必ず「妻の貞操が危ぶまれる事態が起きたときは迷わず殺せ」と家臣に言っていたり、ガラシャ本人にも「貞操を捨てなければならなくなったら自害しろ」と命じていたようです。

だいぶ病んできていますね…


この頃からガラシャも精神的に追い込まれ始め、本格的に離縁も考えていたらしく彼女も病んでいくのですがそれを食い止めたのがキリスト教だと言われています。

どこかで神経質になりすぎてしまったのか、かなり嫉妬深い男になってしまっています…


そこでそんな忠興のヤンデレっぷりがよく分かる逸話を紹介!

ある時庭師が庭で剪定をしていたところにガラシャが通りかかった際、忠興が「今妻に色目を使っただろう!!」という理由でこの庭師を手討ちにしてしまいました。
そして血のついた刀をガラシャの小袖で拭いて見せたのです。

しかし私が思うに、本当に驚くのはこの忠興の行為ではなく、それに対するガラシャの反応だと思います。
ガラシャは驚きもせずその小袖を数日着続け、逆に忠興を震えさせたというのです。

その時の忠興の放った言葉が「おまえは蛇か!
自分のしたこと棚に上げて何を言うかと思いきや、ガラシャも「鬼の嫁には蛇がお似合いよ」と嫌味をぶちかますのでした。


ある意味息ぴったりでは…?


しかし同じ頃なぜか忠興は突然側室を5人持ちたいと言い出すなどやはりヤンデレは進行中です。
そんなこんなでますますキリスト教にのめり込むガラシャでしたが、キリスト教弾圧が強まる中でキリスト教の洗礼を受けたことが忠興に見つかってしまいます。
激怒した忠興は、ガラシャをキリスト教へと手引きした侍女たちの鼻や耳を削ぎ落としたり、遊郭へ送ってしまったりのむごい仕打ちをしてしまうのです。

しかしこの監禁生活の間にも、二人の間には次女と三男そして三女が生まれています。
2人の間には、合計で5人の子供がいた事になりますね。

いろんな書籍ではなんだかんだいって仲いいのではないかと言われていますが、男性の力に女性は及びませんから実際のところは当人たちにしか分からないよねと私は思っています。


秀吉の没後、徳川家康側についた忠興は関ケ原の合戦で人質作戦を決行しようとしていた石田三成の裏をかいて、「もし敵側に人質としてとられるようなことがあれば迷わず自害しろ」とガラシャにまた命じて戦へと出陣していきました。

予想通り人質になるよう三成側から迫まれますが、ガラシャはこれを拒否し城の女性や子供たちを逃がした後で家臣に「潔く夫の命に従い私は死につこうと思います」と述べて38年の生涯を閉じました。
この際キリスト教では自害はできないことになっていますので、家臣に槍で胸を突かせたという話が残っています。

結果的にこのガラシャの行動によって、三成はその後の人質作戦を取り止めを得ざる状況になり家康軍が有利になったとさえ言われているのです。


戦場で妻の悲報を聞いた忠興はその場で泣き崩れたとも言われています。
他の男に触れられるくらいなら死んでくれた方がマシと思ってはいても、実際貞操を固く守りそして結果的にこの戦の勝利に貢献してこの世を去った彼女を愛しく誇りに思ったのかもしれませんね。
その後忠興はあんなに忌み嫌っていた教会で、ガラシャの葬儀をキリスト教式で執り行ってあげるのでした。

逃げようと思えば逃げられたのに逃げずに戦国大名の妻として死を選んだガラシャも、やはり忠興を愛していたからこそこの散り方を選んだのかもしれません。

先ほど真実は当人たちにしか分からないと書きましたが…
忠興とガラシャこの二人、ちまたではとんでもない変わり者夫婦だと言われていますが、戦国時代には珍しく本当は心底とても愛し合っていた夫婦だったのかもしれませんね。

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細川忠興とガラシャの子孫が実は著名人?!


細川忠興とガラシャ夫妻の子孫は、二人の長男である忠隆の血筋の政治評論家・(故)細川隆元さんとその甥にあたる同じく評論家の(故)細川隆一郎さんです。
そしてその隆一郎さんの娘さんで政治ジャーナリストの細川珠生さん。


よく細川護煕元総理大臣が細川ガラシャの子孫なのでは?という話を耳にしますが、確かに細川家(熊本藩主)の末裔ではありますがガラシャの血は引いていません。

細川元総理大臣は、忠興が側室との間に産んだ4男、細川立孝の血筋にあたります。
忠興とガラシャの血を引く7代目の藩主が男子がいなかったため、この細川立孝の系統から養子をもらったんですよね。

この記事のまとめ


細川ガラシャの夫である細川忠興は、超ハイスペックな“デキる男”だったが、非道な上に短気で扱いにくい困ったお人であったようです。

そしてその子孫は、なんと政治に関わる仕事の方々でした。やはり血は争えないというか、文武両道だったデキる男の遺伝子が受け継がれているのかもしれませんね。

歴史好きの間では、この二人の夫婦関係について議論が交わされることもしばしば…。史実を知ってどう捉えるかで結論は変わってくると思いますが、私は殺伐とした戦国の世の中で一瞬でも真実の愛が存在していたのだ…と信じたいですね。


なお、以下の記事では細川ガラシャの辞世の句について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:細川ガラシャは美人だった?年表や辞世の句の意味について!