奈良時代、平安時代と婚姻関係によって天皇家とのつながりを強めて権力を握り、貴族のトップに君臨した藤原氏。平安時代半ばの藤原道長・頼通親子の時代にその栄華は頂点に達します。

ところが、学校の歴史の授業では藤原頼通以降、藤原氏の名前を聞くことがほとんどなくなり、「あれ?そういえば藤原氏ってどうなっちゃったの?」状態ですよね。


じつは藤原氏は現代までずっと続いており、子孫の方もご健在です。

今回は、道長以降の藤原氏についてご紹介したいと思います。

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藤原道長の子孫について。藤原氏ってどうなったの?


道長の代で栄華を極めた藤原氏でしたが、その繁栄は長くは続きませんでした。

平安時代の一族内の政争を経て、摂政・関白は藤原氏の中でも「藤原北家(ほっけ)」と呼ばれる家が代々担うことが定着していきます。道長・頼通も藤原北家の嫡流でした。

藤原道長の外孫に当たる天皇は後一条・後朱雀・後冷泉天皇の3人。息子の頼通は3人が幼いころは摂政として、成人してからは関白として、実に約50年政治の実権を握ります。頼通も「摂関政治」のお約束として、娘を天皇に嫁がせますが、皇子は誕生しませんでした。


ここから少しずつ、藤原氏の「計算」が狂っていきます。
後冷泉の後を継いだ後三条天皇の場合、父は後朱雀天皇、母は三条天皇の娘です。父方・母方ともに祖父が藤原氏ではないという天皇は、実に約170年ぶりのことでした。

さて、後三条天皇は摂政・関白にまかせず、みずから政治を行おうと意欲的でした。後を継いだ白河天皇も父と同様に政治を行い、子どもの堀河天皇に譲位したのちも天皇の後見役として政治の実権を担います。御所につくった「院庁(いんのちょう)」という役所で政治を行ったので、こうした体制を「院政」と呼びます。藤原氏が「天皇の母方のおじいさま」の地位を利用したのに対し、院政はズバリ「天皇のお父さま」の地位を利用したわけです。


院政では摂政・関白に頼らず、中・下級貴族を重用しました。
白河天皇以降、鳥羽、後白河、後鳥羽の各天皇が院政を行いますが、実はこの間も摂政・関白には道長・頼通の子孫がついています。


そして院政以後、武士の世の中へと移り変わり、藤原氏は道長の時代のような権力は望めなくなりますが、摂政・関白の職は明治維新まで、ある例外を除いては道長・頼通の子孫たちが就きました。

その「例外」こそ、豊臣秀吉とその甥(おい)の秀次です。


ただ、秀吉も関白・近衛前久(さきひさ)(近衛家は藤原氏五摂家のひとつ。あとで詳しく述べます)の養子となってから関白に就いています。秀吉は藤原氏とは縁もゆかりもありませんが、そんな彼でも形だけは「摂政・関白は藤原氏から」という先例を守ったと言えます。

※参照:豊臣秀吉の年表をわかりやすい形で簡単にまとめてみた

藤原氏は現在まで続いてない?五摂家とは?


「藤原氏は現代まで続いている」と最初に述べましたが、「藤原」の名は名乗っていません。

藤原氏は平安時代末から鎌倉時代にかけて、「五摂家」という「摂政・関白を出す家」を決め、それぞれの家の名を名乗るようになるのです。


実は藤原北家の嫡流の内部で摂政・関白をめぐる争いが起こったり、職に就いた者が若くして亡くなるなどゴタゴタがありました。そこで鎌倉幕府も介入し「今後、摂政・関白を出す『家』を固定しよう」ということになったようです。

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※参照:五摂家(ごせっけ)とは – コトバンク


上の図にある藤原忠通は、道長から5代あとの摂政・関白です。
跡継ぎの男子が長い間生まれず、弟の藤原頼長を養子にしていたのですが、40歳を過ぎてから男子が生まれたため、頼長と養子縁組を解消して息子にあとを継がせたいと思うようになります。

この兄弟の対立に加え、皇室でも兄・崇徳上皇と弟・後白河天皇が政治の主導権を巡って対立し、崇徳と頼長、後白河と忠通がそれぞれ結びつき、1156年に保元の乱が起こります。後白河・忠通が勝利し、頼長は乱のさなかに命を落とします。


忠通のあとは、3人の息子たち長男・基実、二男・基房、三男・兼実とそれぞれの子孫がそのときどきの状況に応じて摂政・関白の職を歴任します。院政から平氏政権、鎌倉幕府と権力の中枢が移りゆくなかで、摂政・関白の政治的な力は低下します。もはや「天皇の母方のおじいさま」かどうかにかかわらず、藤原北家嫡流の世襲制とされるようになりました。


忠通のあと、摂政・関白は兄弟とその子どもたちの間で次のように引き継がれます。

藤原忠通→基実(24歳で逝去)→基房→基通(基実の子)
→師家(基房の子)→基通→兼実→基通→良経(兼実の子)



基実が若くして亡くなり、子の基通が幼かったために弟の基房が継いでいます。世襲制になり、継ぐべき子が幼い場合は兄弟でその職をまわしていくのは自然のなりゆきでしょう。

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その過程で、

・長男の基実の家は「近衛家」
・次男の基房の家は「松殿家」
・三男の兼実の家は「九条家」


このように呼ばれるようになります。
(それぞれ、邸宅を構えた場所にちなんでいます)


長男の家である「近衛家」が藤原北家の嫡流といえるでしょう。


また「松殿家」からはふたりの摂政・関白を出しましたが、その後は摂政・関白を出すことなく衰退し、戦国時代には途絶えてしまいます。


一方、鎌倉時代の末に近衛家からは鷹司家九条家からは一条家二条家が分家します。


鎌倉時代を生きた藤原氏の子孫たちは、摂政・関白の職の継承がスムーズにいかないと、分家して摂政・関白になれる家を増やしたようですね。こうして、平安時代末から鎌倉時代を通じて「摂政・関白を出す5つの家」が固定化されていきました。

・近衛家
・鷹司家
・九条家
・一条家
・二条家



この5つの家は「五摂家」と呼ばれます。

「現代の藤原氏」こと五摂家の子孫はどうなったの?


豊臣秀吉・秀次を除き、明治維新に廃止されるまで、一貫して摂政・関白は五摂家の人間のみ就く事になっていました。明治時代以降は、天皇を補佐する役目として皇族が摂政に就くことが皇室典範で定められています。昭和天皇は皇太子時代、父・大正天皇の摂政でした。


明治維新後、五摂家の当主は、華族の中でも一番上の爵位である「公爵」になっています。


ここからは、現代の五摂家の概要をざっと紹介します。


【近衛家】
日中戦争・太平洋戦争中の総理大臣、近衛文麿が有名ですね。彼は30代目の当主です。熊本藩主細川家の18代当主である細川護煕元首相は、文麿の孫に当たります。

近衛家の現当主は近衛忠煇氏。細川氏の実弟で、細川家から近衛家に養子に入りました。本来、文麿の息子・文隆が文麿の次の当主となるはずでしたが、陸軍中尉として満州に渡り、戦後シベリアの収容所で亡くなったためです。近衛文隆は劇団四季のミュージカル「異国の丘」の主人公のモデルとしても知られています。


【鷹司家】
現当主の鷹司尚武氏は伊勢神宮の大宮司です。先代当主・鷹司平通には子がなかったため、尚武氏を大給松平家(松平<徳川>家の庶流)から養子に迎えています。

鷹司平通の妻が昭和天皇の三女・孝宮和子内親王であることから、年配の方には「鷹司和子」の名で鷹司家の名前を覚えている方も多いと思います。戦後、華族制度が廃止され、旧五摂家の嫡男とはいえ皇族以外の平民で交通博物館勤務のサラリーマンに、皇族が嫁いだということで話題になりました。


【九条家】
九条家の当主は九條道弘氏。平安神宮の宮司です。また、藤原氏の末裔が集まる「藤裔会」の会長も務めています。藤裔会は毎年、秋に藤原氏の氏神である春日大社に集まっていて、代々九条家の当主が会長を務めるそうです。


【一条家】
一条家の当主は弁護士の一條實昭氏。2014年6月に亡くなられた天皇陛下のいとこ・桂宮さまの学習院初等科から高等科までの先輩にあたり、葬儀の際にも司祭長を務めたということです。


【二条家】
二条家の当主は二条基敬氏。現在は神官・実業家とのことです。



戦後、華族制度がなくなり、五摂家の人々は「一般の人」となりました。
ただ、大名家や皇族との婚姻関係の影響は現在でもあるようですね。


ところで、五摂家以外にも「藤原氏」は存在します。

西園寺家、花山院家、武者小路家、飛鳥井家・・・
道長の子孫とは異なる系譜ですが、みな藤原氏です。


明治・大正期に首相を2度務めた西園寺公望は、五摂家に次ぐ格式を持つ「清華家」の一つ。
西園寺家は北家の支流に当たります。


武者小路と聞けば、作家の武者小路実篤。
武者小路家もまた北家の支流で、上から4番目の「羽林家」という格式を誇ります。
(明治維新まで、格式によって朝廷で就ける最高の官職が決まっていました)。


ちなみに藤原氏の氏神である春日大社の現宮司さんは、花山院弘匡氏。
この姓である花山院家は西園寺家と同様「清華家」の格式を持っていました。


1000年以上連綿と続いてきた藤原氏。

歴史のうねりの中で、時には権力の中枢として、時には武家勢力に翻弄されながらも生き続けてきた「生命力」には、感動すら覚えます。

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この記事のまとめ


というわけで今回は、藤原道長の子孫やその後の藤原氏について解説してきました。

藤原道長の死後の藤原氏は明治維新に至るまで、摂政、関白の地位を受け継いではいるのですが、その政治的な影響力は院政や武士の台頭により、以前ほど強くはありませんでした。


また、藤原氏は鎌倉時代になると「五摂家」に分裂し、これに含まれる家だけが摂政、関白になれるという取り決めがなされました。

この五摂家の子孫の方々が藤原道長の子孫でもあり、いずれの家も現在に至るまでその血筋を受け継がれています。


ちなみに、以下の記事では藤原道長の家族について解説しています。この家族がいたからこそ道長は栄華を極められたと言えそうですね。興味があればご覧になってみて下さい。

※参照:藤原道長の母親はどんな人?姉の詮子や妻の源倫子も解説!