キラキラと金色に輝く金閣寺は、日本の歴史的な建物の中でも特に有名な建物です。
小学生の頃に家族旅行で見に行ったときは、本当に金色の建物で驚いた記憶があります。

この金閣寺を建てたのが、室町幕府の3代目の将軍、足利義満(あしかが よしみつ)です。
一体どんな人だったのでしょうか。

小学生の方にもわかりやいように、足利義満の年表などをご紹介します。

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足利義満(あしかが よしみつ)ってどんな人だったの?


足利義満の生まれた時代は、南北朝時代と呼ばれています。

この時代は、京都にあった天皇家が、北と南の2つに分かれて争っていました。
この南北朝時代の真っただ中、北側に味方していた足利尊氏は、室町幕府を作りました。

ちなみに、この足利尊氏(あしかが たかうじ)は、足利義満のおじいちゃんです。

※参照:足利尊氏ってどんな人?年表や室町幕府を小学生向けに解説!


この室町幕府ができた頃からが、室町時代と呼ばれています。
そして、幕府の一番えらい人である将軍は、足利家が務めました。

小さい時から将来将軍になるための勉強をしていた足利義満ですが、実はこの足利義満が将軍になったのは、なんと10歳のころ。お父さんの足利義詮(あしかが よしあきら)が病気で亡くなってしまったため、息子の足利義満は10歳で後を継ぎ、3代将軍となったのです。

周りに支えられながら将軍となった足利義満は、将軍としてとても有能でした。
先ず、味方になってくれる実力者たちをかき集め、敵となる南朝を倒していきました。
そうやって南の天皇家を弱らせたことで、南北朝時代を終わらせる事に成功します。

それ以外にも、お隣のという大国(今の中国)との貿易もするようになり、色々な文化や文明の交流を始めます。おかげで、足利義満は日本一と言えるくらいのお金持ちになります。


そして足利義満は、キラキラと金色に輝く金閣寺を建てました。
この当時、そんなことができたのは足利義満しかいなかったでしょう。

その後、足利義満は、49歳で亡くなりました。
足利義満が将軍だった時代が、室町時代で一番栄えていた時代だと言われています。

ちなみに、この足利義満は、アニメ「一休さん」の「将軍さま」でもあります。
一休さんのお父さんは、北側の天皇だったので、足利義満とも親交があったのでしょうね。

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足利義満の年表を小学生にもわかりやすく解説!


ではここで、足利義満の年表を、小学生の方にもわかりやすいようにご紹介します。


・1358年 (0歳)
足利二代将軍・足利義詮(よしあきら)の子として生まれる。

・1361年 (3歳)
敵側の南朝軍に攻め込まれ、お父さんと一緒に兵庫に逃亡。

・1368年 (10歳)
室町幕府の3代将軍となる。

・1378年 (20歳)
京都に「花の御所」をつくり、室町幕府をうつす。

・1391年 (33歳)
明徳の乱(めいとくのらん)が起こる。
山名氏をやぶり、足利将軍の勢力を拡大する。

・1392年 (34歳)
南北朝を統一。60年も続いた南北の争いを終わらせる。

・1394年 (36歳)
息子に将軍職をゆずり、太政大臣(だいじょうだいじん)になる。

・1395年 (37歳)
太政大臣をやめて出家する。隠居生活を始める。

・1397年 (39歳)
北山に別荘(のちの金閣寺)を建てる。

・1399年 (41歳)
応永の乱(おうえいのらん)がおこる。
大内氏をやぶり、幕府の力をさらに強める。

・1401年 (43歳)
明に使者を送る。

・1404年 (46歳)
明との貿易が開始。とてもお金持ちになる。

・1408年 (50歳)
足利義満が亡くなる。

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足利義満の生きた時代は、室町幕府の力がとても強かった時期でした。 
義満は南北朝時代を終わらせ、明徳の乱や応永の乱で力のあった山名氏や大内氏の力を弱め、さらに明との貿易を通して幕府の力を高めていきます。

この室町幕府が強かった時の象徴と言えるのが金閣寺です。金閣寺について、以下でもう少し詳しく見ていきましょう。

足利義満が建てた金閣寺(きんかくじ)とは?


金閣寺が建てられたのは、1397年です。
建てたのはもちろん義満。
ただ、建てた時には、足利義満(39歳)は息子に将軍を継がせていて、自分は隠居(いんきょ)生活をしていました。

そして、この金閣寺はそんな足利義満の別荘として北山に建てられました。
その時は、北山殿(きたやまどの)と呼ばれていました。


この北山殿には元々、西園寺家を作った藤原公経(ふじわら きんつね)さんの別荘があったのですが、そこを後に譲り受け、足利義満が自分の別荘を建てたのだとか。
つまり、この公経さんの子孫である西園寺さんの家計が赤字になったので、手放したところを足利義満が手に入れたということです。
西園寺家の人たちも、手放した後にあんな金色の別荘を建てられてビックリしたでしょうね。

そして、自分が死んだ後は寺にしてほしいという足利義満の遺言通り、別荘であった山荘北山殿は、金閣寺となりました。


この金閣寺ですが、3階建の建物です。
1階は公家式、2階は武家式、3階はお寺式と、階層によって建築の仕方が違います。
しかも、2階と3階は金箔がたくさん貼り付けられています。

当時にしたって、とてもお金がかかったはずです。ちなみに1987年に行った金閣寺の建て替えのときに、金箔の貼り替えや漆の塗り替えにかかった工事費用は7億4000万円だったらしいです。

足利義満のそんなこだわりが詰まった金閣寺は、今では相当に貴重なものとして、世界遺産にも登録されています。そのためか、日本だけではなく世界的にも有名になり、現在も海外から多くの観光客がいらっしゃいます。


でも、実は金閣寺が相国寺というお寺の塔頭(たっちゅう)寺院の1つだとは、あまり知られていません。

塔頭(たっちゅう)寺院とは、大きなお寺の中にある小さなお寺のこと
金閣寺は小さなお寺で、相国寺が大きなお寺にあたります。
そして金閣寺の建物としての役割は、お釈迦さまの遺骨などが納められる舎利殿(しゃりでん)なのです。

見た目のインパクトが強すぎるせいか、金閣寺が小さなお寺だとは、なかなか思えないかもしれませんね。

この記事のまとめ


足利義満(あしかが よしみつ)とは室町幕府の3代将軍で、金閣寺を建てた人物です。
老後のお家として金閣寺をたてるなど、足利義満は当時とてもお金持ちな人物でした。

黄金に輝く金閣寺。それを建てた足利義満。
足利義満は、室町幕府を盛り上げた人物でもあります。
そんな生きざまが、黄金に輝く金閣寺に表れているのかもしれませんね。


足利義満が金閣寺を建てた理由については、以下の記事でわかりやすく解説しています。
義満なき後の金閣寺の歴史についてもまとめてみたので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:足利義満が金閣寺を建てた理由やその後の歴史。頂上の鳳凰とは?