徳川家康の重臣であり、江戸時代には、家康と秀忠の側近として活躍した本多正信

三河国一向一揆で一揆側についたことで一時は家康から離れていた時期もありましたが、関ヶ原の戦い以降は家康の側近として、その才能を存分に発揮しました。

この記事では、本多正信の3人の息子やその子孫ついて紹介していきます。

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父に似た長男正純、荒っぽい次男政重と三男忠純


本多正信には、妻との間に本多正純本多政重本多忠純という3人の息子がいました。
(ちなみに正信には側室はいなかったようです。)

この3人の息子について、以下で詳しく見ていきましょう。

家康に重用されるも秀忠の時代に失脚した「本多正純」


本多正純は本多正信の長男で、小山藩主、宇都宮藩主、老中など多岐にわたって活躍しました。
正純は江戸幕府において家康を支え、その側近として立場を強めておりました。特に、大坂の冬の陣の後に堀の埋め立てを進言したのは正純と言われており、彼の活躍の程が伺えます。

1616年に家康と父本多正信が亡くなると、正純は秀忠の側近になり年寄(老中)に任命されます。しかし、家康や父正信といった後ろ盾がなくなり、秀忠本人やその側近、あるいは秀忠の姉である加納御前(亀姫)からは良くは思われていませんでした。

※参照:徳川家康の5人の娘について。亀姫、督姫、振姫の生涯とは?

そして1622年に、正純は突如失脚してしまいます。
居城であった宇都宮城にて秀忠の暗殺を図ったなどの容疑をかけられ、本多家は改易、正純と息子の正勝が流罪となりました。この事件には証拠がなく、秀忠とその側近、加納御前らの策略とされています。

幕府発足時の一員として大きな功績をあげた正純ですが、周りからの評判は悪かったようです。因果応報である面もあったのかもしれませんが、その功績を考えると若干気の毒に感じますね。

父や兄と異なり知略よりも武勇に優れていた「本多政重」


本多正信の次男である本多政重は、荒っぽい性格をしていたと言われています。
政重は1591年に、徳川氏の家臣である倉橋長右衛門の養子となりましたが、1597年には、川村荘八を斬り殺して出奔しています。関ケ原の戦いでは西軍の宇喜多秀家軍に所属していましたが、父本多正信の存在もあり、処分は免れました。

その後も、本多政重は福島正則→前田利長→直江兼続と主君をコロコロ変えています。主君を変えることは、力がないと簡単にできないので、本多政重の実力が周りから認められていた事がわかります。また、政重を一時期養子にしていた直江兼続のように、父親正信が家康の側近であるので、招き入れれば幕府内で優位に立てるという考えを持ち、家臣とした事例もありました。

政重は最終的には加賀の前田家に帰参しており、大坂の陣にも参戦しています。また、前田家の領国を幕府が没収しようとした際は2度にわたってこれを防いだという逸話も残されています。

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次男政重のような性格である三男の「本多忠純」


本多正信の三男である本多忠純は、下野榎本に1万石を与えられて榎本藩を立藩し、初代藩主を務めた人物です。かつてこの地を治めていた小山氏の旧臣を取り入れたり、あるいは城下町を建設したりと、藩主としてやるべき事はやっていたそうです。

一方、忠純は次兄の本多政重に似て、荒っぽい武人肌の人物だったそうです。大坂の陣にも出陣しており、この時は毛利勝永に破れてしまうのですが、戦後は1万8000石を加増されています。記録には残っていないようですが、何かしらの手柄を立てていたのでしょう。

※参照:毛利勝永の大坂の陣における活躍について。妻や子孫も解説!

その一方で、本多忠純は短気で、家臣を手討ちにする事もしばしばあったそうです。そのため家臣からは恐れられており、自分が殺されることを危惧した家臣に暗殺されてしまいました。

本多正信の子孫は今もいるのか


本多正信の3人の子供について解説しましたが、その子孫はどうなったのでしょうか。

まず、長男である本多正純の孫である本多正好(ほんだ まさよし)は和田姓を名乗り、美濃国で暮らしたそうです。その子孫の方は姓を木村に改め、かつて本多正純が居城とした宇都宮市の祭典にも主席されているそうです。

また、三男である本多忠純の家系は後継者が続けて若死してしまい、1640年に榎本藩は改易されてしまいます。

次男である本多政重はどうでしょうか。実は、彼を祖とする加賀本多家は前田家の筆頭家老として加賀藩を支え、その家系は現在でも続いています。
現在の当主は15代当主の本多政光さんという方で、加賀本多博物館の館長を務め、本多家の調度品を数多く展示しています。本多政重の子孫の名前には「政」の字が必ず入っており「本多正信の子孫」と言うよりも「本多政重の末裔」というニュアンスが強い気がします。また、本多政光さんには娘が3人いて、長女が婿養子である本多俊彦さんを迎えております。本多俊彦さんは、高岡法科大学で准教授を務めており、加賀や本多家について、研究を行い、論文や出版物を出しています。

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この記事のまとめ


本多正信には、3人の息子がいました。

・父とともに家康を支えるも晩年に失脚した本多正純
・武勇で名を上げて現在も子孫が続く本多政重
・榎本藩藩主を務めるも家臣に暗殺されてしまった本多忠純


本多正信の息子達はこの通り性格が異なり、様々な人生を送っていますね。個人的に一番興味深いのはやはり次男の本多政重です。何度も主君を変え、関ヶ原の戦いでは西軍についたりするも生き残った点を考えると、この政重には世渡り上手な一面があったのだと思います。


ちなみに、彼らの父親である本多正信の評価について以下の記事でご紹介しています。
正信は一時期、あの松永久秀に仕えていた時期があったのですが、その時、当時の主君である久秀が正信を評した言葉とは・・・?

※参照:本多正信の評価について解説。家康や松永久秀の正信像とは?