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日本の歴史の中でも謎の多い人物、邪馬台国の女王・卑弥呼
小学生の社会の授業でもお馴染みになっているくらい、とても有名な人です。


しかし、その名前の有名さとは反対に、多くの謎が残されています。


倭国を統一して治めた女王、卑弥呼とはどんな人だったのか。
今回は、そんな卑弥呼の歴史を、簡単な年表にして小学生向けにご紹介します。
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邪馬台国の女王、卑弥呼ってどんな人?


日本の小学生なら社会の授業で必ず教わる、邪馬台国の女王、卑弥呼。
それでは、その卑弥呼は一体どんな人だったのでしょうか。


卑弥呼の治めていた当時の邪馬台国は、かなり大きな国だったそうです。
その国の女王であった卑弥呼もまた、やはり大きな存在でした。

なにせ、身の回りのお世話をする侍女だけで、千人ほどもいたのだとか。そればかりか、亡くなったあとには、他の王様に比べて、とっても大きなお墓が建てられたらしいです。
当時の卑弥呼の力の大きさが分かりますね。


それでは、なぜ、そんなに卑弥呼が大きな力を持てたのか。
それは、彼女の特技に秘密があります。
鬼道(きどう)」と呼ばれる「まじない」です。

卑弥呼は、このまじないの力がとても得意でした。まじないで日々の天候や戦いの勝ち負けなどを占い、卑弥呼は女王として邪馬台国を治めていたとされています。


ちなみに、そんな卑弥呼ですが、死ぬまで夫はいませんでした。
ただ、卑弥呼のサポートをする弟がいたみたいです。女王になってからの卑弥呼は、人前に出なくなったため、弟と、もう一人の男性が卑弥呼の言葉を皆に伝えていたのだとか。


けれど、それ以外に詳しい情報は残されていません。
当時の日本には、文字がまだなかったので、歴史を書物に残せませんでした。

だから、現在の歴史に残されている卑弥呼のことも、魏国(現在の中国)に残された書物に書かれていた情報なのです。

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そもそも邪馬台国とは、どんな国?


では、卑弥呼が女王として治めていた邪馬台国は、一体どんな国だったのでしょうか。

邪馬台国は弥生時代の後期ごろに、日本に存在したとされている国です。
ただ、当時の日本には、まだ文字がなかったので、歴史書なんてものは残っていません。
そのため、この邪馬台国の名前が登場するのは、中国の歴史書の「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」です。

当時の中国に、(ぎ)という国がありました。
その魏国の歴史書に、日本の国のことも書かれているのです。


魏志倭人伝によると、当時の日本は、倭国(わこく)と呼ばれていました。
けれど倭国は、決して一つの国ではなく、数十の国が存在していたそうです。
そして、その国その国に、トップとなる王様がいました。

勿論、卑弥呼が治めていた邪馬台国もその一つです。


当時の倭国は、いくつもある国と国が、何度も争い合っているような時代でした。
その中でも、とても大きな国だった邪馬台国は、倭国の中心となり、他の国を従えるような国だったのだとか。なぜなら、他の国には、お家が千戸ほどというところ、邪馬台国には七万戸もあったのだそうです。

つまり、魏志倭人伝によると、邪馬台国は他の国々をまとめる大きな国だったわけです。


そんな邪馬台国ですが、倭国のどこにあったのでしょうか。
その場所も、魏志倭人伝に書かれてはいます。

この書物には、当時の倭国に存在していた大小、色々な国々のことがくわしく書かれており、邪馬台国までの道のりも記されているのですが、この道筋を順番にたどっていくと日本列島を飛び出し、太平洋まで突き進んでしまいます。

おかげで、いまだに邪馬台国の場所は、謎のままなのです。


けれど、色々な歴史家の人たちが考え、研究をした結果、「近畿地方説」と「北部九州説」の2つが邪馬台国の場所として有力とされています。

近畿地方説」の場合、魏志倭人伝に書かれている邪馬台国への道のりに出てくる「水路」が、ちょうど瀬戸内海を通るルートになっていて、書かれていることと合ってくるのだとか。
何より、「やまたい」国と、「やまと」国が似ているから、という言い分らしい。

そして「北部九州説」ですが、こちらは、道のりの合計距離が、魏志倭人伝に書かれた道のりの合計距離とおおよそ合ってくる。
また、道のりに出てくる国の名前が、ほぼ、間違いなく九州にあったとされる国であること。
その結果、邪馬台国は北部九州にあったという言い分です。


ただ、個人的な意見では、やはり「北部九州説」かな、と。
なにせ、邪馬台国の時代を感じさせる遺跡である「吉野ヶ里遺跡」がありますからね。

卑弥呼と邪馬台国の年表を小学生向けに解説!


謎の多い邪馬台国の女王、卑弥呼。
その人生も、魏志倭人伝に書かれていることだけです。

不明点が多く、推定の部分が多いです。
何より、卑弥呼の生まれた年も不明です。


こうした事をふまえて、邪馬台国と卑弥呼の歴史を、小学生向けの年表にして魏志倭人伝に書かれてある事を参考にしながらご紹介します。

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・推定100年~150年ごろ
このころ、邪馬台国が成立したと考えられている。
王様は男性で、他の国々と争う日々送っていた。


・邪馬台国成立70~80年後(推定180年~200年ごろ)
卑弥呼が邪馬台国の女王になり、争いが落ち着く。


・239年
卑弥呼が魏の皇帝に使いを送る。「親魏倭王(しんぎわおう)」という呼び名と、その証の印綬(※公式の印鑑みたいなもの)を貰う。
※魏の皇帝に、卑弥呼が倭国の王だと認めてもらったわけです。


・247年または248年
卑弥呼の邪馬台国と、敵対していた狗奴国(くなこく)との戦いが始まる。
※卑弥呼が亡くなった年は不明ですが、この戦いの決着を見ることなく亡くなったとか。


・249年~265年
とある男性が邪馬台国の王になる。
争いの日々が続く。


・266年ごろ
卑弥呼の後継者だった13歳の少女、台代(いよ)が、邪馬台国の女王になる。

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ちなみに、卑弥呼の没年と同じく、邪馬台国の最後が、いつどなったのかも不明です。
有力な説としては、大和朝廷につながっていったとか、別の王朝として消滅したという説。

けれど、邪馬台国のその後もまた、残念ながら明確にはなっていません。なにせ、魏氏倭人伝をまとめていた魏の国自体が、当時、大変な状況でもあったわけですからね。

この記事のまとめ


卑弥呼がどんな人だったのかを、邪馬台国があったとされる場所や年表を交えながら小学生向けにご紹介しました。

卑弥呼は得意のまじないの力で、邪馬台国を治めていたと言われています。この邪馬台国の場所は謎に包まれていますが、近畿地方と北九州のいずれかが有力とされています。当時の日本(倭国)に関する記述は、邪馬台国と仲の良かった海外の国・魏に残された歴史書「魏志倭人伝」に書かれているのですが、いまだ邪馬台国と卑弥呼にまつわる謎は、解き明かされていません。

日本の小学生の歴史で、必ず習う「卑弥呼」と「邪馬台国」の謎にせまるため、多くの歴史家や考古学者の方々が日々、研究を続けています。今後、発掘や研究が進み、多き謎が解き明かされることを、是非とも期待したいですね。

※参照:大和朝廷が成立した時代や場所について。邪馬台国との関係は?