江戸幕府2代目将軍を務めた徳川秀忠は、徳川家康の三男として生まれました。
父の家康がとても偉大なせいでしょうか。秀忠は父親の七光りで将軍になったイメージがあり、どんな業績を挙げたのかよくわからないですよね。
ですが、徳川幕府の政治や外交に関する基本的な在り方は、秀忠の時代に決まったことが多く、彼は将軍として大きな業績を残しているんです。
今回は、秀忠のやったことを5つに大きく分けてまとめてみました。
目次
徳川秀忠の業績その1:武家諸法度の発布
徳川秀忠は1615年に武家諸法度という大名家を統制するための法律を発布しました。
この法律では武芸や学問など武士の嗜みを推奨する他、城を無断で修築することや、無届で結婚することなどが禁止されました。要するに、何かを行うためには江戸幕府の命令や許可が必要ということですね。これによって大名の権限は大幅に制限されました。
武家諸法度は秀忠以降、将軍が変わるたびに発布されるようになります。
徳川秀忠の業績その2:禁中並公家諸法度の制定
武家諸法度が発布された1615年に、禁中並公家諸法度が制定されます。
朝廷や公家を統制する事が主な目的でした。
全17か条からなるこの法律では「天皇は学問を修めることが第一」と定義されています。
天皇は政治ではなく学問をせよと規定することにより、政治的権力は朝廷ではなく幕府が持っていることを暗に示しているのです。その他にも、三公・摂政・関白といった重職に関する項目や、武家と公家の官位は別であることなどが決められました。
武家諸法度は将軍が変わる度に多少の改定が施されたのに対し、禁中並公家諸法度は一度も改訂されず、朝廷政策の根本法として君臨し続けました。
徳川秀忠の業績その3:徳川体制の強化と大名の統制
以上の2つは父、家康と共同でやったことと言えますが、ここからは徳川秀忠が家康死後に行った業績について見ていきましょう。
秀忠の業績の1つとして、江戸幕府の基盤をより強固にした事が挙げられます。
1616年に家康が死去した後、秀忠は自らの側近である酒井忠世や土井利勝を老中に任命し、また、尾張・紀伊・水戸に義直(尾張家)・頼宣(紀伊家)・頼房(水戸家)という3人の弟を配置しました。秀忠は「徳川御三家」と呼ばれるこの三家に対し、将軍の補佐役や将軍に跡継ぎがいない場合の血統保持の役割を与えました。また、三男の忠長に駿河・遠江・甲斐といった、徳川家に縁の深い土地を与えた点も挙げられます。
※参照:徳川御三家の現在とは。尾張・紀伊・水戸の末裔はどんな人?
一方で、福島正則などの外様大名を相次いで改易に追い込んでいる点も見逃せません。
秀吉の死後、武断派と文治派の対立によって豊臣家が弱体化したことを知っている秀忠は、不穏な目を早く摘み取ると同時に、政治の中枢を信頼できる人や親族で固めて対立が生じないようにしたのかもしれませんね。
徳川秀忠の業績その4:朝廷対策と紫衣事件
徳川秀忠の業績の1つとして、朝廷対策にも触れる必要があります。
彼は朝廷に対してどのような政策を採ったのでしょうか。
秀忠は天皇家と姻戚関係になることを狙い、娘の徳川和子を後水尾天皇に入内させます。
まるで平安時代の藤原家のような政策ですね。
その一方で、秀忠は朝廷に対して厳しい統制を行いました。
その代表的な例として「紫衣事件」が挙げられます。当時、僧に対して紫衣(高貴な僧が着用する紫色の衣のこと)着用の許可を与えるのは朝廷の権利でした。この慣習に乗っ取り、後水尾天皇は1926年に大徳寺と妙心寺の僧に紫衣の着用を許可します。
しかし秀忠は、後水尾天皇の行為は禁中並公家諸法度に違反するとし、勅許を無効としました。
この事件によって秀忠は「朝廷でさえも幕府に従う存在である=幕府は朝廷よりも上位である」ことを印象付けることに成功したのです。
※参照:徳川秀忠ってどんな人?能力や性格まとめ!
徳川秀忠の業績その5:鎖国の道筋を作る
内政面では徳川幕府の権力を強固にした秀忠ですが、対外的にはどのような政策をとったのでしょうか。
徳川幕府が行った外交政策として有名なのは鎖国ですよね。鎖国が完成したのは徳川家光の時ですが、秀忠の時代から既に鎖国政策の一端がうかがえます。
1613年にキリスト教宣教師に国外退去を命じるバテレン追放令が発令されており、また1616年には明と朝鮮以外の外国船の帰港を長崎・平戸に限定しています。
秀忠は貿易利益よりも、キリスト教の排除に力を入れる外交政策を採ったということですね。
鎖国政策は以降の徳川幕府の外交政策の基本となっており、秀忠が行った事は、後の江戸幕府の外交政策の基本となったと言えそうですね。
この記事のまとめ
徳川秀忠がやったことは以下のようにまとめることができます。
・武家諸法度の制定し、大名を統制した
・禁中並公家諸法度を制定し、朝廷と公家を統制した
・一族を要所に配置すると共に、外様大名を相次いで改易した
・紫衣事件を契機に、幕府と朝廷の関係を明確なものんいした
・キリスト教の排除に力を入れ、鎖国政策の基礎を作った
秀忠の業績を改めて並べてみると、徳川幕府の基本的な方針が彼の時代に決まったことがよくわかりますね。家康の影に隠れがちな秀忠ですが、徳川体制の基礎を作った縁の下の力持ちと言えるのではないでしょうか。
なお、以下の記事では徳川秀忠の女性関係について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。
※参照:徳川秀忠の妻について。江との夫婦仲や側室の存在は?