天下分け目の関ヶ原の戦い。その勝敗を決定づけた一人の男がいます。
彼の名は小早川秀秋。
暗愚とよく言われる彼の評価は正当なものでしょうか?
今回は関ヶ原の戦いでの寝返りが有名な彼の生涯を、その死因や子孫の存在などを含めて解説していきたいと思います。
小早川秀秋の評価について。再評価の余地はあるのか?
一般に、小早川秀秋の評価は低く、優柔不断で暗愚だと言われています。
それは先程も挙げた、関ヶ原の戦いでの寝返りが理由とされることも多いです。
しかし、本当に秀秋は暗愚だったのでしょうか。
実は彼は、戦闘支援や内政で業績を上げているのです。
慶長の役では、日本軍の総大将として釜山まで渡り、城の普請や戦闘支援を行いました。また、関ヶ原の戦い後は岡山城の城主として、検地の実施、寺社領の再整備など、岡山の近代化を進めています。
さらに関ヶ原の戦いでも、元は東軍であったが、西軍に付かざるを得ない状況になったため、事前に徳川家康に、西軍を裏切り東軍に付くことを通告していたという説もあります。
この説から考えると、秀秋が関ヶ原の戦いで寝返るまでに時間があったのは、冷静に状況を判断していたからだと再評価できるのではないでしょうか。
謎の早世をした小早川秀秋。その死因とは?
小早川秀秋は、関ヶ原の戦いから二年後に二十一歳で亡くなっています。
岡山城での内政を進めている時でもありましたし、戦や感染症の記録もないため、一見謎の死を遂げたように見えます。
小早川秀秋の死因は、一体何だったのでしょうか。
一つ逸話として残っているものに、秀秋が関ヶ原の戦いで対峙した大谷吉継の祟りだという話があります。それは、関ヶ原の戦いで窮地に陥った大谷吉継が、自害の際に秀秋の陣に向かい「三年の間に祟りをなさん」と言い放ったというものです。
※参照:大谷吉継の奉行としての能力や武将としての活躍に迫る!
実際、秀秋は関ヶ原の戦いの2年後である1602年に亡くなっています。なので、秀秋が大谷吉継の祟りによって亡くなったという噂を信じる人は、当時かなり多かったのではないでしょうか。
しかし、現在の医学的観点から見ると、アルコール依存による内臓疾患が死因であるという説が最有力となっています。
実際、酒を覚えた頃から深酒をすることが多く、養母であった高台院の頭を悩ませたという話や、親交のあった公卿の記録にも少年期からの飲酒の話が残っています。
小早川秀秋に子孫はいるの? 小早川家のその後は?
小早川秀秋は子供がいないまま亡くなったこともあり、秀秋の死後、小早川家は断絶してしまいます。
つまり、秀秋と直接血のつながった子孫はいないということです。
しかし、小早川家が現在も断絶しているのかといえば、そうではありません。
明治時代に入り、毛利本家が小早川家を再興しています。
この再興された小早川家の子孫が現在でも存在しているのです。
また、秀秋の死後、側室が子供を産んだという伝承が残っています。
しかし、確実な史料が残っていないのか、伝承の域を出ていません。
この記事のまとめ
小早川秀秋の業績を考えると、現在のその評価はあまりに低いのではないかと私は思います。
酒に溺れていたという生活は確かに良い印象はありませんが、若い彼が戦国の世を生き抜く上で様々な葛藤があったのかもしれません。
今後、彼の評価がどう変わっていくのか楽しみです。
なお、以下の記事では「関ヶ原の戦いにおける小早川秀秋の行動」を解説しています。そもそも秀秋は「裏切った」と言えるのかについて詳しく検証してみたので、一度ご覧になってみて下さい。
※参照:小早川秀秋の関ヶ原での裏切りの真相。陣取った松尾山とは?
はじめまして、大田弘志と申します。
我が家にいつの時代に書かれたものか不明ですが、退職を機に暇を見つけては内容精査しています。
タイトルは「大田家系統」で内容は「土肥次郎實平公入城」から始まり第17世「小早川左衛門隆景公」の法名までがまとめて記されています。
この中で『17世隆景嫡孫に「小早川神左衛門」という人あり』と記されています。
この人物が本当に存在していたのか?
もし実在していたならば「大田家」の先祖、ルーツになるかもしれません。
書には「神左衛門大田」を名乗り、与えられた地に住むようにと記されています。「大田」は「ダイダ」と読みます。
この人物が実在していたのか知りたいです。
西軍大敗の原因ですな。