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千円札に書かれている人の名前を知ってますか?
この人は野口英世(のぐちひでよ)という歴史人物です。

お医者さんとして、数多くの業績を残したこととして有名な人物ですが、一体どんな人だったのでしょうか。

野口英世の年表や業績を見ながら、どんな人だったのかを調べてみましょう!
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野口英世ってどんな人?小学生にもわかるように解説!


まずは野口英世がどんな人だったのかを、小学生の方にもわかるようにご紹介します。

野口英世は1876年に生まれ、1928年に51才で亡くなった明治、大正時代の細菌学者です。子供のころは英世ではなく、清作(せいさく)という名前でした。

清作は福島県の田舎のまずしい農家に生まれますが、1才のときに家のいろりで左手に大やけどをして、左手が不自由なまま子供時代を過ごします。
お母さんのシカは、自分の不注意から大やけどをおわせてしまい、左手が不自由になってしまった清作は大人になっても畑仕事をして生活することはできない、だから、しっかり勉強をして自分の道をみつけてほしいと願い、必死にはたらいて清作を小学校へ入学させました。

この時代はまだ小学校へ入学できるのはお金持ちの家の子供だけだったので,貧しくて、左手も不自由な清作は小学校でもいじめられますが、お母さんのシカはいつも清作を励まして清作も熱心に学んで、10才のころには、先生の代理で授業をする「生長」という役目をまかされるほどになりました。

しかし、小学校を卒業した清作は進学したくても家が貧しくて学費を払うことができません。

すると小学校の恩師・小林先生が、熱心に学び成績のよい清作をどうしても進学させてやりたいと考え、自分が清作の学費をだして、12才の清作を猪苗代高等小学校へと進学させます。そして15才のときには、今度は友人たちの寄付金によって不自由な左手の手術も受けることができました。

このとき、自分のように苦しむ人を救うことができる医者という仕事に感動した清作は大人になったら医者になることを目指して勉強をつづけ19才のときに東京へ出て、さらに熱心に学んで、20才の若さで医師免許の試験に合格し、医師となります。

21才のときには東京の伝染病研究所に入って、北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)博士の教えを受けます。このころ名前を清作から英世にあらためています。

23才のときに、アメリカに渡り血清学(けっせいがく)や免疫学(めんえきがく)の研究で注目され、その後も、梅毒(ばいどく)の病原菌スピロヘータの研究や、黄熱病(おうねつびょう)の原因を調べる研究、狂犬病(きょうけんびょう)や小児マヒなどの研究もおこないましたが、51才のときに、アフリカに渡って黄熱病の研究をしているときに、英世自身が黄熱病にかかり亡くなりました。

田舎の貧しい家に生まれて、左手が不自由になったり、けっして恵まれた子供時代ではない中で、お母さんや、小学校の恩師、友人たちの助けに支えられて、野口英世自身も長い年月、たくさんの努力をかさねて世界的な細菌学者になったんですね!

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小学生でもわかる!野口英世の年表


ここでは野口英世の年表を、小学生の方にもわかりやすいようにまとめてみました。


・1876年
福島県で生まれる。

・1878年(1才)
いろりに落ちて左手に大やけどを負う。

・1883年(6才)
母・シカの懸命な働きによって、三つ和小学校へ入学する。

・1889年(12才)
三つ和小学校を卒業し、猪苗代高等小学校に入学する。

・1892年(15才)
友人たちの寄付金により、会津会陽医院で左手の手術を受ける。

・1893年(16才)
猪苗代高等小学校卒業し、会津会陽医院で薬学生として学ぶ。

・1897年(20才)
医師の資格試験に合格し医師となる。
高山医学院講師となり、その後順天堂医院ではたらく。

・1898年(21才)
北里柴三郎のいる伝染病研究所に勤務する。
名前を「清作」から「英世」に改名する。

・1900年(23才)
アメリカへ渡り、ペンシルベニア大学のフレキスナー博士のもとで研究をする。
翌年にはアカデミー・オブ・サイエンスで毒蛇の研究の発表を行う。

・1911年(34才)
日本より医学博士の学位を授けられる。
梅毒スペロヘータの純粋培養に成功する。
アメリカ人女性、メリー・ロレッタ・ダージスと結婚する。

・1914年(37才)
日本より理学博士の学位を授けられる

・1915年(38才)
日本の帝国学院より恩賜賞を受ける
日本に一時帰国し、母シカと再会する

・1918年(41才)
エクアドルに黄熱病の研究に行き、病原体をわずか9日目に発見する。
母、シカがスペインかぜで亡くなる

1919年(42才)
黄熱病研究のため、メキシコやペルーなどの国を訪れる

・1928年(51才)
ガーナで黄熱病の研究中に、野口英世自身が黄熱病にかかり亡くなる

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貧しい家に生まれながらも、野口英世は努力を続けお医者さんになり、数多くの病気を発見するという業績を残しました。

では、野口英世が残した業績はどのようなものだったのでしょうか。以下で詳しくご紹介します。

野口英世の業績について見てみよう!


野口英世がおこなった研究について、もう少しくわしくみてみましょう。

業績その1:毒蛇(どくへび)の研究

アメリカへ渡った英世はペンシルベニア大学のフレキスナー博士のもとで研究をつづけ、24才のときに毒蛇についての研究発表をおこないます。
これは蛇のもつ毒の性質、あるいは毒蛇にかまれたときにその毒を消すためにどうすればいいかの方法についての研究です。

業績その2;梅毒(ばいどく)スペロヘータの研究

34才のときには、梅毒という病気の原因であるスペロヘータという細菌を人工的に育てることに成功します。
それまで梅毒は世界中に苦しんでいる人がいるのに、治す方法が分かっていない病気でした。
そして、この梅毒を治す方法をみつけるためには、その原因となる細菌をつかった実験が必要でした。
そのため、野口英世がこうした細菌を人工的に育てること成功したことは大きなニュースとなり、世界中にその名前が知られるようになり、ノーベル賞の候補にもなっています。

業績その3:黄熱病(おうねつびょう)の研究

41才から亡くなるまでの10年間は野口英世は黄熱病の研究にうちこんでいます。
黄熱病とは、カにさされることで、ウィルスが人の体の中に入ると、高い熱がでて、体が黄色く変色して、やがて死んでしまうという恐ろしい病気です。

英世はこの黄熱病の研究のために、エクアドル、メキシコ、ペルー、ブラジルといった多くの国々を訪れます。しかし51才のときに、アフリカのガーナを訪れていた際に、英世自身が黄熱病にかかり亡くなってしまいました。

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この記事のまとめ


野口英世がどんな人だったのかを、年表や業績をふまえて小学生の方にもわかるようにご紹介しました。

田舎の貧しい家に生まれて、左手が不自由になったり、けっして恵まれた子供時代ではない中で、お母さんや、小学校の恩師、友人たちの助けに支えられて、たくさんの努力をかさねて世界的な細菌学者になった人物です。

野口英世にとって、やけどで不自由になった左手を医学によって治してもらったことへの感動と感謝はとても大きなもので、それが人々を苦しめる細菌の研究に一生うちこむエネルギーになり、多くの業績を残すことが出来るようになったのかもしれませんね。