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上杉というと、越後の虎の異名を持つ上杉謙信が有名ですが、その跡を継いだ上杉景勝も、豊臣秀吉の死後、五大老の一人になるほど力のある人物だったのです。

では、この上杉景勝の人物像はどのようなものだったのでしょうか。上杉謙信との関係や景勝自身の子供の詳細についても見ていきましょう!
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謹厳実直な逸話から見る上杉景勝の人物像とは?


上杉景勝の人物像はどのようなものだったのでしょうか。

上杉景勝を語る上で1つ、有名な逸話があります。景勝は猿を飼っていましたが、ある日、その猿が自分の席に座り、頷いたり部下に指図したりと自分の真似をしていたのを見て、部下の前で笑みをこぼしたという逸話です。この笑みが、生涯でたった一度の部下の前での笑みであったと言われており、上杉景勝の厳格で真面目な人物像が伺い知れます。

また、こうした景勝の人物像からくるものからか、上杉軍は何一つお喋りする事なく、テキパキと行動を行っていたとだとか。他にも秀吉が催した無礼講OKの酒席で、かの前田慶次が大名の前で猿真似を行った時、他の大名たちの前とは違って、景勝の前だけはどうしてもふざけた事が出来なかったという逸話も残っています。

上杉景勝は、上杉謙信の跡を巡って義理の弟である上杉景虎と激しい跡目争いを繰り広げた過去があるため、自ずと領内を律するための性格が備わったのかもしれませんね。

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謎が残る!?上杉景勝と上杉謙信の関係


上杉謙信には実子がいなかったため、上杉景勝は謙信の元に養子として迎え入れられています。しかし、上杉謙信と上杉景勝の関係はそれだけではないのです。

上杉景勝の実母にあたる仙桃院は、上杉謙信の実の姉です。
つまり、上杉謙信と上杉景勝は血の繋がった叔父と甥にあたるわけです。

そのため、上杉謙信との仲は良好なのでは?と思われた方も多いのではないでしょうか。
ドラマなどでは景勝が養父である上杉謙信の事を尊敬している描写がしきりに出てきますし、晩年の景勝が名乗った法名「宗心」は、生前の謙信が名乗ったものである事から、この2人の関係は非常に良好だったという説は依然として有力です。

しかし、上杉謙信と上杉景勝の仲については、景勝の父親である長尾政景が謙信に暗殺されたという説から、実は仲が悪かったのではという説も残されています。実際、景勝や長尾政景の実家である上田長尾家と上杉謙信や父親の長尾為景の実家である三条長尾家は対立状態にあった事から、景勝は謙信の人質でしかなかったのでは、という見方も存在します。

もう1度まとめると、

・上田長尾家:景勝、長尾政景
・三条長尾家:上杉謙信、長尾為景


このような形になります。

この他にも、謙信が後継を指示せずに亡くなったという事情もあるため、景勝と上杉謙信の関係は良かったと安易に断定するのは早急かもしれません。今後の研究が待たれますね。

※参照:上杉謙信ってどんな人?年表や武田信玄との関係を解説!

上杉景勝の子供はどんな人?実は養子がいた!?


上杉景勝には上杉定勝という実の子供が一人と、畠山義真(はたけやま よしざね)という養子が一人いたという記録が残っています。

上杉家を継いだのは上杉定勝ですが、この上杉定勝の母は景勝の側室である桂岩院です。
正室で、武田信玄の娘でもある菊姫の間には子供がいませんでした。

上杉定勝が生まれる頃には、正室である菊姫は亡くなっており、また、側室の桂岩院も出産後まもなく亡くなったため、家臣であった直江兼続とその妻、お船の方が定勝の養育をしたとされています。定勝は1626年に左近衛権少将の官位を授かり、1645年に死去するまで米沢藩主としてその務めを果たした人物です。

また、畠山義真は後に景勝との養子縁組を解消して、能登畠山家の当主となり徳川秀忠の側近として幕府で行われる儀式の発展に尽くしました。上杉家との関係は続いたようで、上杉定勝の子供が米沢藩主となった際はその後見人としての仕事も行っています。

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この記事のまとめ


「笑わない名称」とも称される上杉景勝
その人物像や上杉謙信との関係、子供についてご紹介しました。

度重なる内乱の中で上杉家を継承し、豊臣家の五大老としてもその任を務め、関ヶ原の戦いで領地を減らされる中でもその後の米沢藩主としての上杉家の基礎を築いた上杉景勝。こうした時代の転換期を生き抜けたのも、その「笑わない」とまで言われた厳格で実直な性格があったからではないかと私は思います。

なお、以下の記事では景勝もメンバーだった豊臣政権における五大老について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:五大老の序列や五奉行との違いなどについて解説!