長きに渡る戦乱の世に幕を閉じ、太平の世が庶民にも訪れた時代である元禄の世の将軍と言えば、「生類憐れみの令」で知られる5代将軍徳川綱吉です。

この「生類憐れみの令」を綱吉にすすめたのは、彼の母親である桂昌院という人物だとされています。一体どのような女性だったのでしょうか。

この記事では、5代将軍徳川綱吉の家族というテーマで、母親の桂昌院や綱吉の妻、その子供たちについてご紹介します。

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徳川綱吉の母親「桂昌院」ってどんな人?


徳川綱吉と言えば、多くの人が「生類憐れみの令」を思い浮かべると思いますが、その綱吉に大きな影響を与えたとされるのが、ここで解説する母親の桂昌院という人物です。
仏教への信仰が厚い桂昌院は、子宝に恵まれない綱吉を思うあまりに、仏教の教えから生き物の殺傷を嫌いました。これが転じて、あの「生類憐みの令」になったとされています。


桂昌院の人生について、もう少し詳しく見てみましょう。

桂昌院はもともと「お玉」という名前で、かつては江戸城の大奥で働くひとりの侍女に過ぎませんでした。しかし、お玉は3代将軍の徳川家光に見初められ側室となります。
その後、男子である綱吉を生み、その側室という役目を立派に果たしました。

※参照:徳川家光の妻について解説。男性との恋愛エピソードも!?


夫である家光亡きあとは仏門に入り「桂昌院」と名乗ります。

家光の死後、長男である家綱が後を継ぐのですが、わずか40歳で亡くなってしまいます。
そのため、家綱の弟である綱吉が5代将軍となるわけですね。


つまり、桂昌院は侍女から将軍の生みの親に大出世した女性だったのです。一説では、今も残る「玉の輿」という言葉のもとは、この桂昌院だと言われてます。更に当時の女性としては、最高位である従一位の官位と合わせて藤原光子という名を朝廷から賜っています。

この頃、桂昌院は周りから一位様と称賛され、この上ない喜びを感じ得ていたのでしょう。
実際、桂昌院は1705年に79歳で亡くなるのですが、その実家は「将軍の母親」というブランドによって大きく栄えたと言われています。

その一方で、その出自からは「成り上がり者」と桂昌院のことを悪く言う人々もいました。その一人が綱吉の正室である鷹司信子だと言われているのですが・・・
彼女は一体どのような女性だったのでしょうか。

徳川綱吉の妻を正室の鷹司信子を中心に解説!


徳川綱吉には正室、側室を含め何名かの妻がいました。
そのうち正室にあたるのがこの鷹司信子(たかつかさ のぶこ)という女性です。

鷹司信子は、藤原氏の血を引く五摂家の1つである鷹司家の生まれです。1651年に生まれた信子は、1664年に13歳で綱吉のもとへ嫁ぐのですが、その際、京言葉を改め江戸言葉や武家特有の文化を学び、夫の実家の理解に積極的な一面を見せた事もありました。

※参照:藤原道長の子孫は現代にもいる?五摂家とは?

しかし、綱吉と信子の間には子供は生まれず、このため2人の夫婦仲は悪かったと言われています。また、信子は先述した桂昌院や、綱吉の側室の中で唯一子供を産んだお伝の方とも不仲だったと言われています。


このお伝の方という女性ですが、かつては桂昌院に仕える侍女の一人に過ぎませんでした。それが綱吉に気に入られて…という話になるのですが、この点桂昌院とお伝の方はそっくりですね。侍女から将軍の側室になったこの2人と、生まれながらの公家の文化と教養を兼ね備えた鷹司信子の間には、武家や公家の文化を超えた身分の違いによる対立が生まれたとされています。


また、綱吉の側室には、信子と同じ京の公家出身の寿光院清心院の2人がいます。この2人が綱吉の側室になった背景には、綱吉とお伝の方の関係を引き裂こうとする信子の思惑があったとされています。しかし、信子ら公家出身の側室たちが綱吉の子供を生むことはありませんでした。

その後、信子は綱吉がなくなった1709年1月のわずか1ヶ月後になくなっています。
信子の生涯を見てみると、綱吉という一人の男を巡って、愛と憎悪が目まぐるしく交差する日々を送っていた女性の姿を思い浮かべてしまいます。

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徳川綱吉の2人の子供の生涯とその跡継ぎについて


その一方で、綱吉とお伝の方の子供はその後どうなったのでしょうか。

徳川綱吉ですが、お伝の方との間に鶴姫と徳松という2人の子供を授かっています。このうち徳松はわずか5歳で亡くなっています。一般的に知られる七五三は、この徳松の健やかなる成長と健康を祈ったのが始まりとされていて、現在でも年中行事の一つとして知られています。

一方の鶴姫は紀州藩主の徳川綱教(とくがわ つなのり)に嫁いでいます。
男の子がいなかった綱吉は、一時期この娘婿を次の将軍に…と考えていたそうです。
しかし、徳川綱教は綱吉がなくなる4年前に死去しており、綱吉の目論見は外れる事になりました。その1年前には、鶴姫もわずか27歳で亡くなっています。娘婿や実の娘に先立たれる綱吉とお伝の方の心境はいかなるものだったのでしょうか・・・


このため、綱吉は甥にあたる綱豊(後の徳川家宣)を養子とし徳川将軍の座を譲り渡しました。
徳川家宣と綱吉の仲はあまり良くなかったとされています。そのためか、家宣は綱吉が定めた生類憐れみの令などの政策を廃止しており、その影響力を除こうとした一面を見て取れます。

この記事のまとめ


今回は、徳川綱吉の家族というテーマで、綱吉の母親の桂昌院や正室の鷹司信子、そして綱吉の側室やその子供についてご紹介しました。

すべてが美しく、輝き眩い光りに包まれた豪華絢爛の元禄の世を生き抜いた徳川綱吉。すべてが満ちた時代であっても母として子供を思う桂昌院、将軍綱吉の寵愛に身を捧げたその妻たち、子供の成長を願う綱吉の心は、現在と全く同じですね。

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