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時代劇はお好きですか?

かつて放送されていた時代劇に、「暴れん坊将軍」という作品がありますよね。この作品の主人公は江戸幕府の八代将軍、徳川吉宗であるということはご存じの方も多いかと思います。

では、徳川吉宗は本当に暴れん坊将軍と呼ばれるような人だったのでしょうか。

徳川吉宗のプロフィールや、評価についても同時に見ていきましょう!
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徳川吉宗のプロフィールについてわかりやすく解説!


まずは徳川吉宗のプロフィールを簡単にご紹介します。

吉宗は江戸幕府の八代将軍ですが、本家筋ではなく家康の10男、徳川頼宣を初代とする紀伊徳川家の出身です。1684年、五代将軍徳川綱吉の時代に生まれた徳川吉宗は、紀伊藩の3代目の藩主として藩政に従事していました。

※参照:徳川綱吉の母親の桂昌院について。妻や子供についても解説!

しかし、七代将軍徳川家継が1716年に八歳という若さで亡くなり、その跡継ぎがいなかったことから、吉宗が跡を継いで将軍となりました。将軍となった吉宗は幕府の財政を立て直す「享保の改革」を行いました。

1745年には将軍職を長男の家重に譲り、自身は1751年に亡くなるまで大御所として影響力を発揮し続けました。また、二男の宗武に田安家を、四男の宗尹に一橋家を創設させ、これに孫の重好の清水家を加えた御三卿を創設させています。この裏には、尾張徳川家を代表とする徳川家の一族に対抗するといった吉宗の思惑があったと言われています。

江戸幕府中興の祖!徳川吉宗の評価とは


それでは、徳川吉宗の評価はどのようなものなのでしょうか。

吉宗は「江戸幕府中興の祖」と評価されているのですが、それは行った享保の改革で幕府の財政を立て直したことが大きく関わっています。

とりわけ米相場の改革に尽力し、全国の新田開発を行った他、米の上納と引き換えに参勤交代で江戸に在住する期間を減らした「上げ米の制」(あげまいのせい)、過去数年間の米の収穫高の平均から年貢の額を算出した「定免法」(じょうめんほう)といった政策を実行しました。
その結果、一時は傾いた幕府の財政を立て直す事に成功しており、人々は吉宗を「米将軍」と呼んでその偉業を讃えました。


また、吉宗はこのような施策を行っています。

・目安箱を設置して庶民の意見を聞いた
・大岡越前守(大岡忠相)などを採用して司法制度を改革した
・小石川養生所を創設して医療制度の向上につとめた
・一部の洋書の輸入を解禁して、蘭学発展の基盤を築いた


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こうした日々の暮らしに関わる政策を行った事からも、徳川吉宗は名君として良い評価がされる傾向にあります。ちなみに3つ目の小石川養生所は、幕末になると蘭学をもととした医者によって押され気味になるのですが、この蘭学が流行した1つのキッカケとして吉宗による洋書輸入の解禁が挙げられるので、将軍としての吉宗の影響力は大きなものであると言えそうですね。

しかし、一方で、年貢を豊作凶作に関わらず一定の割合を徴収する「定免法」は、農民にとっては大きな負担であり、また質素倹約を民衆にも奨励したりと、それまでの華やかな文化が一時衰退したという副作用もありました。
また、享保の改革がキッカケとなって百姓一揆が頻発したという見方もあり、少なくとも吉宗の施策は民衆にとっては面白くない政策だったのではないかという低い評価もあります。

若い頃は勇猛だった?暴れん坊将軍吉宗

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徳川吉宗と言えば、時代劇「暴れん坊将軍」の主人公としても有名な人物です。

この事から、「徳川吉宗=暴れん坊」というイメージを持つ方もいれません。
その一方で、享保の改革で発揮された財政の手腕や、江戸時代中興の祖として評価される一面からは、吉宗がとても暴れん坊には見えないと思われる方もいるのではないでしょうか。

徳川吉宗は「暴れん坊」だったのか。

これについては、吉宗の身長が180cm、体重が90kgもある大男だったという体型が謎を解くヒントになりそうです。当時の男性の平均身長が約156cmですから、大変身長が高かったことが分かりますね。更には剣術を得意とし、十九歳の時には相撲取りとの勝負で買ってしまうなど、体力も並外れた人物だったようです。

ドラマ「暴れん坊将軍」には、吉宗が得意の剣術で悪人を撃退するシーンがありますが、その元となったのはこうした吉宗の勇猛果敢なエピソードだったのではと感じます。
バイオレンス的な響きがある「暴れん坊」という言葉よりも、むしろ「正義の味方」という言葉の方が似合うのかなと思いますね。

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この記事のまとめ


徳川吉宗のプロフィールや評価についてご紹介しました。

吉宗には「暴れん坊」とも言われる若い頃の勇猛果敢な姿をはじめ、藩主時代以降の印象や、享保の改革にみる評価の分かれ方など、一言では言い表せない人物だと感じます。ともあれ、これだけ多くの側面がある吉宗はとても魅力的な人物だったのではないかと思いますね。

なお、以下の記事では紀伊藩など徳川御三家について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:徳川御三家の現在とは。尾張・紀伊・水戸の末裔はどんな人?