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江戸時代から明治時代に移り変わる、幕末という時代には、多くの人が志高く生きていました。

特に、黒船来航から世界に危機感を覚えた人たちや、江戸幕府の政治に疑問を持った人たちが、倒幕派として江戸幕府に対抗し始めたのです。

今回はその中でも奇兵隊を結成し、長州藩のリーダーとして江戸幕府などと戦ったことで有名な高杉晋作(たかすぎしんさく)がどんな人だったのかを、年表をまじえながら小学生の方にもわかるようにご紹介します。
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高杉晋作ってどんな人?小学生にもわかりやすく解説!


まずは高杉晋作がどんな人だったのかを、小学生の方にもわかるようにご紹介します。

高杉晋作は1839年、長州藩(現在の山口県)の武士の家に長男として生まれました。

18歳の頃には、吉田松陰(よしだしょういん)が開いていた松下村塾(しょうかそんじゅく)という塾に通い、後に倒幕の志士(江戸幕府を倒して新しい日本を作ろうとした人たち)として名を残す久坂玄瑞(くさかげんずい)や、後の初代総理大臣となる伊藤博文と共に学び始めました。
その後も江戸で学び、中国の上海への留学した経験もありました。

高杉晋作が日本に帰った頃には、共に学んだ久坂玄瑞を始めとする長門国の武士らが尊皇攘夷運動(天皇を尊重し外国人を日本から排除しようという動き)をしており、高杉晋作もこれに参加します。特に、この運動の最中に高杉晋作が結成した奇兵隊(きへいたい)は有名です。

その後、高杉晋作は奇兵隊を率いて藩の主導権争いや江戸幕府との戦いで活躍します。しかし1867年の5月、結核により27歳の若さでなくなります。大政奉還よって江戸幕府が消滅する、半年ほど前の時期でした。

後の初代内閣総理大臣で、当時は高杉晋作のもとで働いていた伊藤博文は、高杉晋作のことを「動けば雷電の如く、 発すれば風雨の如し」と語っており、その行動力はとてもすごかったと言われています。

※参照:伊藤博文ってどんな人?年表や業績を小学生むけに解説!

小学生でもわかる!高杉晋作の簡単な年表


ここでは、小学生の方にもわかりやすいように、高杉晋作の年表を簡単に解説します。


・1839年(0歳)
長州藩(現在の山口県)で生まれる。


・1852年(13歳)
長州藩の藩校(武士の子が通う学校)明倫館に入学。


・1857年(18歳)
吉田松陰の松下村塾に通う。


・1862年(23歳)
幕府使節随行員(ばくふしせつずいこういん)として上海へ留学する。
同じ長州藩の友人である久坂玄瑞らと共に、江戸の品川御殿山(しながわごてんやま)に建設中だったイギリスの公使館の焼き討ちを行う。

・1863年(24歳)
下関戦争に参加する。
長州藩が関門海峡で外国船を砲撃し、アメリカ、フランスと衝突する。
敗北した長州藩の代表として、外国との交渉を担当する。
奇兵隊を結成する。


・1864年(25歳)
第一次長州征伐が発生する。
長州藩は幕府軍に降参するが、高杉晋作はこれに反対する。
下関市にある功山寺(こうざんじ)で、幕府に従うことを主張する藩の家来を倒すために挙兵する。


・1865年(26歳)
功山寺挙兵が成功し、長州藩は幕府と戦うことになる。


・1866年(27歳)
江戸幕府がふたたび長州藩を攻める。(第二次長州征伐)
高杉晋作もこの戦いに参加し、幕府軍に勝利する。


・1867年(満27歳)
肺結核にてなくなる。

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幕末に奇兵隊を率いて戦った高杉晋作ですが、年表を見てもわかるように、27歳という若さでなくなっています。
もしも高杉晋作が長生きしてたら…と考えると、色々なことが思い浮かぶ方もいるのではないでしょうか。

高杉晋作が結成した奇兵隊について簡単に解説!


最後に、高杉晋作が結成した奇兵隊についても、簡単に見てみましょう。

奇兵隊は、武士だけでなく町人や農民といった庶民も参加していた戦闘部隊です。下関を守るように長州藩から任された高杉晋作が、外国船から長州藩を守るために結成しました。

奇兵とは本来、敵の不意を突き奇襲をしかける兵士のことです。しかしここでは、正式な武士階級の兵士である「正規兵」の反対語として使われています。武士だけでなく庶民も参加していたので、正規兵とは別の部隊だと示しているのではないかと思います。

高杉晋作は、志のある庶民が奇兵隊に参加することで大きな戦力になると考えていました。
隊士たちは当時もっとも進んでいたヨーロッパ式の訓練を受けており、数多くの戦果もあげています。
また、奇兵隊は長州藩の軍でもあり、武士以外の隊員も藩から給与をもらっていました。

しかし、明治時代になって戦がなくなると、奇兵隊をふくめた長州藩の多くの兵士が職を失ってしまいます。その後、一部の隊士が反乱を起こしますが、明治政府に鎮圧されてしまいました。

奇兵隊を鎮圧した人の中には、高杉晋作の父親もいたと言われています。もしも高杉晋作が生きていたら奇兵隊のその後は違ったものになっていたかもしれないだけに、その早すぎる最後は惜しまれますね。

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この記事のまとめ


高杉晋作がどんな人だったのかを、年表や彼が結成した奇兵隊をまじえてご紹介しました。

わずか27歳という若さでなくなった高杉晋作。
しかし、彼の活躍や残した奇兵隊の存在は、今でも多くの人に語り継がれています。

当時、幕府や藩の政治を取り仕切っていたのは武士階級の人ばかりでしたが、庶民も交えた奇兵隊には、武士でなくても志があれば世の中を変えられるという、高杉晋作の想いが込められていたのかもしれません。

なお、以下の記事では高杉晋作の先生でもある吉田松陰について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:吉田松陰ってどんな人?年表や松下村塾を小学生向けに解説!