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男にも女にもモテた、人を魅了する人物だったと言われる西郷隆盛は生涯に3人の女性を妻にしました。

彼女たちは一体どんな女性だったのでしょうか。
また、隆盛はなぜこんなに多くの妻がいたのでしょう?

このページでは、あまり知られていない「西郷どんの妻たち」について見て行きましょう♪
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最初の妻「須賀」は西郷どんの一目ボレ!?


西郷隆盛の最初の妻は、西郷家より格上の薩摩藩の城下士・伊集院兼善の娘・須賀(すが)という女性です。伊集院家と西郷家の家の距離は近かったようで、どうやら青年・西郷どんは近所で見かけた美しい須賀に一目惚れして結婚に漕ぎ着けた様です。

でも、西郷隆盛24才、須賀21才位でスタートした結婚生活は順調…というにはほど遠く、結婚後すぐ、わずか1年ほどの間に隆盛の祖父、父、母が立て続けに亡くなるという大きな不幸に襲われます!

そして、その翌年には、藩主・島津斉彬に抜擢されて西郷隆盛は江戸での勤務を命じられ、薩摩を出て江戸へ上ることに!これは、隆盛にとっては活躍の第一歩といえる素晴らしい出来事である一方で、薩摩に残される妻・須賀にとっては大変な苦労の始まりでした。

西郷どんの給料は少なく、もともと貧しい西郷家で、同居している西郷どんの5人の弟妹の面倒もみなくてはならず、生活は困窮し、頼りの夫・西郷どんは不在…という状況のなか須賀の父・伊集院兼善はみかねて、須賀を実家に呼び戻したと言われています。

その後、伊集院家から江戸にいる西郷どんに相談して、正式に離縁することになりました。離縁のときには、西郷どんは「こちらこそ申し訳なかった」と言ったと伝わっていて、最初の結婚生活はわずか2年ほどで終わりを告げています。すがのその後の生涯は不明なのですが、少なくとも隆盛はこの離縁をかなり後悔していたと言われています。

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奄美大島の島妻「愛加那」との出会いと別れ


西郷隆盛と二人目の妻・愛加那(あいかな)との出会いは、なんと奄美大島でした。
この出会いは、西郷どんの人生のどん底で訪れたものだったのです。

大抜擢してくれた藩主・島津斉彬の急死により、薩摩藩の方針は大きく変わり、また江戸幕府の井伊大老による安政の大獄がはじまり窮地に追い込まれた西郷どんは1858年11月16日、30才のとき、親しい恩人である京都清水寺成就院の住職・月照とともに鹿児島錦江湾の冬の冷たい海に身を投げます!

しかし月照は亡くなり、西郷どんだけが奇跡的に命をとりとめました。

自分だけが生き残ってしまったことを激しく悔いる隆盛でしたが、薩摩藩は彼の身柄を奄美大島へ移すことを決めました。これは流罪ではなく、前藩主に目をかけられていた西郷隆盛を安政の大獄の捕縛から守るために奄美大島での潜居を命じたものでした。

奄美大島での隆盛は、島の農民たちが役人から理不尽な拷問を受けたり、苦しめられている現状を目にして農民たちを助けるために活躍。そんな中で、身の回りの世話をしていた農家の娘・愛加那との距離も近くなり、やがて二人は結婚します。

1859年12月1日 西郷どん31才、愛加那23才で結婚したのち、1861年2月11日には長男の菊次郎が誕生します。しかし、1861年12月に龍郷の新居に引越すと同時に、薩摩藩からの召喚命令により、西郷どんは奄美大島を離れることに…!

薩摩藩の島妻制度により、島妻を連れ帰ることは許されなかったため、愛加那は二人目の子をみごもっていましたが、2度目の短い結婚生活も幕を閉じることになりました。

けれども、失意のどん底にあった西郷どんを愛した愛加那の存在は大きなものでした。隆盛は奄美大島での暮しのなかで、どん底から立ち直り、成長して大きく飛躍していったのですね。

その後、愛加那は1902年に亡くなりました。ちなみに「西郷隆盛の曾孫の陶芸家」という事で話題になった西郷隆文氏は、この愛加那の血を引いている方です。

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大家族の西郷家を守った伴侶「糸子」の生涯とは?


3人目の妻・糸子(いとこ)との出会いは、西郷隆盛37才のときに訪れます。
薩摩藩士・岩山八郎太の娘・糸子は、身長180cm近い隆盛に対して、150cmあるかないかの小柄で華奢な女性でした。

また、海老原家に嫁いでいたことがあり再婚でしたが、隆盛は「よかよか」と気にとめず、バツ2の西郷どんとバツ1の糸子は、ようやく生涯の伴侶を得ることができたのです。

1865年2月23日、隆盛37才、糸子21才での結婚でした。

とはいえ、結婚後も夫が鹿児島にいることはほとんど無く、糸子は大家族を支え、彼の留守を守る西郷家の中心になっていきます。小柄で華奢な身体でも、芯のしっかりした人だったんですね。

穏やかな人柄の西郷家の次男・吉二郎とマス夫妻とともに、鹿児島の西郷家を守る糸子と、京都などで活躍しながら1年のうち1ヶ月位、鹿児島の西郷家にもどる隆盛。ともに過ごす時間は短い二人でしたが、3人の子供にも恵まれました。

そして、1866年3月9日に京都の寺田屋事件で襲われた坂本龍馬も、妻・お龍と共に鹿児島の西郷家に滞在し、龍馬が姉の乙女に出した手紙には「西郷吉之助の家内も吉之助も大いによい人なれば、この方に妻など頼めば何も気づかいなし」と書いています。西郷どん・糸子夫妻と、龍馬・お龍夫妻が鹿児島の西郷家で談笑する様子が目に浮かびますね。

※参照:坂本龍馬ってどんな人?年表や業績を小学生向けに解説!


維新後、西郷隆盛は薩摩藩の参政の職につき、鹿児島にもどり、武村に690坪の広大な屋敷を購入するのですが、その際、奄美大島から愛加那の子、8才の菊次郎も引き取り、糸子が養育することになります。

このとき西郷家は、隆盛41才、糸子26才、長男・寅太郎(とらたろう)3才、戊辰戦争で戦死した隆盛の弟、吉二郎の2人の子供たちなど、総勢10人を超える大家族になっていました。

そして1870年4月18日には、次男の午次郎(ごじろう)も誕生。1870年から71年にかけて、前庄内藩主・17才の酒井忠篤と旧庄内藩士76人が西郷に学ぶため鹿児島に来て、約4カ月滞在していたエピソードも残されています。こうした事から、糸子は子育てや、西郷どんを慕い西郷家を訪れる多くの来訪者の世話でさぞかし忙しい日々を過ごしていた事と思われます。

1873年10月2日には、三男・酉三(ゆうぞう)も生まれました。

しかし1877年、西南戦争がはじまると鹿児島に上陸した維新政府軍の攻撃は武村の西郷屋敷にも迫り、屋敷は焼失し、糸子たち西郷家の人々は逃げのびて、8畳一間と土間だけの農事小屋に10数人で避難暮しをすることに!

そして隆盛は城山で戦死、糸子34才のときでした。

その後、明治から大正へと時代は流れ、糸子は79才まで生きる事となります。1896年、糸子53才のときには、長男・寅太郎の結婚式に出席するため上京し、東京の寅太郎の家に同居するようになります。1903年には、三男の酉三が結核のため30才の若さで亡くなり、また1919年の75才のとき、52才の寅太郎がスペイン風邪で他界し、二人の息子に先立たれています。

最晩年の3年間を次男・午次郎の家で過ごし、午次郎夫妻に身守られて長い生涯を閉じました。

※参照:大河ドラマ「西郷どん」の原作は?あらすじや脚本家も紹介!

この記事のまとめ


西郷隆盛の三人の妻・・・すが、愛加那、そして糸子についてご紹介しました。

隆盛の1人目の妻・須賀との結婚生活は波乱続き。結婚後わずか1年ほどの間に西郷どんの祖父、父、母が立て続けに他界したり、藩主・島津斉彬の抜擢により隆盛は江戸へ上り、薩摩に残された妻・須賀は大家族を抱え生活は困窮し、須賀の父・伊集院兼善がみかねて実家に呼び戻したため、わずか2年の結婚生活でした。

2人目の妻・愛加那は、隆盛が奄美大島に潜居したときに結婚した島妻でした。薩摩藩からの召喚命令により、西郷どんが奄美大島を離れることになり3年間の結婚生活は終わりを告げますが、2人の子供を授かり、失意のどん底にあった彼を立ち直らせた存在でした。

そして3人目の妻・糸子は、鹿児島を留守にする夫に代わり、次男の吉次郎夫妻とともに大家族の西郷家を守り、3人の息子を授かりました。坂本龍馬夫妻をはじめ隆盛を慕う来訪客の世話をし、子育てをして79才の長寿を全うしました。


西郷どんが一目惚れした美人妻、彼をどん底から立ち直らせた島妻、そして大家族の西郷家を支えた伴侶、西郷隆盛の妻たちも三者三様に魅力的な女性たちですよね。

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