千姫といえば政略結婚により、関ヶ原の戦いのあと豊臣秀頼にわずか7才!! で嫁いだ徳川の姫君ですが、大阪夏の陣で豊臣家が滅亡したのち徳川家に戻されて、20才で再婚。

当時、美男で有名だった2番目の夫・本多忠刻と美女の千姫とはお似合いの夫婦だった様です。

でも不運なことに忠刻は若くして病死。
その不遇な身の上を心配した実弟・徳川家光によって江戸に呼び戻され、出家して後半生を過ごし、没後は立派なお墓に埋葬されています。

この記事では、大坂の陣の後の千姫の生涯についてご紹介します。

スポンサードリンク

本多忠刻との結婚のきっかけは千姫の一目ぼれだった!?


千姫と本多忠刻の出会いは、まさにドラマチック。

それは1615年7月。大阪城が落城し、徳川家に引き渡されることになった千姫が、大阪から江戸へ送られる道中の桑名の七里渡しの渡し船に忠刻も乗り合わせる、という偶然の出会いでした。
この他には、雨で足止めされた千姫一行が桑名城に滞在した折りに、城主の長男である忠刻と出会ったという説も・・・

どちらにしても、誰もが振り返るほどの美男子だったらしい忠刻を見て、千姫は一瞬にして恋に落ちてしまったのかもしれません。

落城、夫の自害という失意の闇の中で出会ったとびっきり美男の青年の姿は、千姫の乙女心にしっかりと焼き付けられたのかもしれませんね。
江戸にもどり、公家との再婚話が出てくるなど、千姫の前途については「徳川家康の孫」「豊臣秀頼の妻」という身分ゆえにいろいろともめ事も発生したようです。そんな中、千姫自身が「再婚するなら、絶対、忠刻でなければイヤ!」と強い意思表示をしたという説も…。

父・徳川秀忠や母・お江も、豊臣家との政略結婚の犠牲になった千姫に今度こそ幸せな結婚生活をと願い、1616年9月29日、20才の千姫は1歳年上の21才の本多忠刻のもとに晴れて輿入れします。

※参照:徳川秀忠の妻について。江との夫婦仲や側室の存在は?


そして翌年の1617年7月には徳川幕府より忠刻の父・本多忠政に姫路藩15万石が与えられ、忠刻には千姫の化粧料として播磨10万石が与えられます。

この本多家への手厚い待遇は両親の千姫への想いの証し、なのでしょうか。
藩主・本多忠政と忠刻・千姫夫妻が姫路城へ入る時には、馬500頭、共850人の行列を従えての入城であったと言われています。

7才で政略の道具となり、さまざまな苦難を乗り越えて、新しい土地・姫路でようやく幸せな生活が始まったのです。が・・・

千姫と本多忠刻との結婚生活の結末とは・・・


姫路城での新居は、千姫・本多忠刻夫妻のために新設された、武蔵野御殿と西の丸に建てられた化粧櫓でした。
この武蔵野御殿は伏見城から移築したもので、壁も金箔!
ふすまには金箔に武蔵野の美しいススキの絵が描かれていた!という贅を尽くした御殿でした。

金色尽くしの御殿に暮らす美男美女の若殿と姫君って、まるで少女マンガか宝塚歌劇みたいですが、まぎれもない実話なんですよね。


そして素敵な夫・忠刻は剣術師範にあの剣の達人・宮本武蔵を招き家中の若武者たちに稽古をつけてもらったり、とただの美男では終わらない体育会系の一面もありまあした。

そして領民たちからも「播磨姫君」と呼ばれ、愛され慕われていた千姫は1618年、22才のときに初めての出産を経験します。
勝姫と名付けられた女の子は、まちがいなく花のような美少女だったことでしょう。

さらに翌年には跡継ぎとなる男の子・幸千代にも恵まれ、いずれ姫路藩主となる忠刻の長男誕生は本多家にとって最高におめでたい出来事だったに違いありません。


でも、そんな光輝く新婚生活はほんの数年…
長男・幸千代が3才で急逝するという悲しい出来事から千姫の人生は暗転していきます。

幸千代を失ったのち、悲しみにくれた千姫は身ごもっても流産を繰り返すようになり、いつの間にか心身ともに追いつめられて、占いや神頼みにすがるように、、、
毎朝のように化粧櫓から見える男山に建立した千姫天満宮に祈ったり、占いで前夫・豊臣秀頼が千姫に祟っていると言われれば、秀頼に許しを請う願い文を書いて観音像の中に納めて奉納したというエピソードが残されています。

※参照:豊臣秀頼の評価は凡庸か?墓が鹿児島にある理由について!


でも幸運の女神が頬笑んでくれることはなく、それどころか、長男ばかりでなく最愛の夫・忠刻も病に倒れてしまいます。

1626年 忠刻は結核で31才の若さで亡くなりますが、その亡くなった日の5月7日は大阪城が落城したのと同じ日付!!
これには千姫も、秀頼の祟りや自分の呪われた運命を感じずにはいられなかったかも、、、

夫と長男を失った千姫。

追い打ちをかけるように同じ年の8月には頼れる義母・熊姫、9月には母・お江をつぎつぎと亡くし、千姫は心のよりどころを失い、本多家においても次期藩主の正室から一転、肩身の狭い立場に追い込まれていきます。

再びの人生の深い暗闇の中で、前途が見えなくなっていた千姫。
そんな折、千姫は時の将軍、徳川家光のやさしい言葉に救われます。

スポンサードリンク

実弟・徳川家光に守られた千姫の江戸での暮らし


それは「江戸へ戻って、共に暮しましょう」という、実弟からの一言でした。
きっと千姫にとって一筋の光のような、心からほっとする申し出だったのではないでしょうか。

そして実は、両親との確執を抱えていたり、妻とも不仲だったといわれる徳川家光にとっても、実姉・千姫は心を許せる数少ない肉親だったのかもしれません。

江戸城・西の丸に入った千姫は、茨城の弘経寺で仏道の教えを受けて出家し天樹院となり、娘・勝姫とともに城内の竹橋御殿に移って、二人の夫の菩提を弔う静かな暮しに入ります。

その後1628年1月に勝姫が11才で20才の鳥取藩主・池田光政に嫁入りしますが、一人娘の勝姫と離れ離れになった千姫は、幾度となく書状を書いては池田家に送り勝姫の身を案じていました。
すると5年後、なんと参勤交代で江戸に上ってきた勝姫の夫・池田光政と対面を果たすことに!

この大奥では異例ともいえる計らいには実弟・徳川家光の配慮があったと言われています。

対面ののち、娘婿の池田光政とも打ち解け、以後とても親しいお付き合いが続いたとか。


また1644年には家光の側室・お夏が千姫の住む竹橋御殿で暮らし、お夏が家光の三男・綱重を出産すると、その養育をお夏にかわって担当するようになります。この事から、大奥での千姫の存在は大きなものとなっていきます。

急逝した我が子・幸千代のぶんまで甥っ子の綱重を徳川の男子として立派に養育しようと奮闘したのかもしれませんね。


こうして70才の天寿をまっとうするまで、大奥での責任ある役割も担いながら実弟・家光に守られ、娘・勝姫夫妻とも仲良く公私ともに充実した後半生を過ごした千姫。
波乱万丈の若い頃を経て人間的にも大きく成長し、その後は大人の女性として充実し安定した人生を過ごした、って感じだった気がしますね。

スポンサードリンク

千姫には3つのお墓がある!最もゆかりがあるのは?


千姫が亡くなった夜、そのご遺体は徳川家の菩提寺である東京・文京区の小石川伝通院に移され、京都・知恩院の37世導師知鑑によって葬儀が執り行なわれました。
この伝通院は千姫だけでなく、徳川家ゆかりの人物が多数埋葬されている事で有名なお寺です。

こちらが千姫の墓碑、さすがに立派ですね~。

貼り付けた画像_2016_06_09_12_22
※参照:徳川家 – 傳通院


また、徳川家の信仰を集めた京都の知恩院にも、千姫の分骨宝塔が建立されています。


ところが、この2つの墓所のほかに、もう1つ千姫のお墓が存在するのです。
それは、茨城県常総市にある弘経寺です。

弘経寺は千姫が姫路から江戸へもどり、仏道に入る折りに教えを受けた縁の深いお寺。
このお寺には千姫没後、彼女ゆかりの遺品やその遺髪が寄進されたそうですが、平成九年に行なわれた弘経寺の保存修理の時に、千姫の遺骨も納められていることが判明したそうです。

千姫の心を仏道に導き、没後には遺品だけでなく遺骨も納められている弘経寺が、永遠に安らかに眠れる本当のお墓と言えるのかもしれませんね。

この記事のまとめ


千姫の2番目の夫である本多忠刻は当時有名な美男であり、また武術にも熱心な人物でしたが若くして病死しました。また、実弟・徳川家光は信頼しあえる仲のよい姉弟で、家光は未亡人となった千姫を擁護し、また家光の三男を千姫が養育しています。

そのお墓は、東京の小石川伝通院、京都の知恩院、茨城の弘経寺の3カ所にありますが、千姫が出家したお寺であり、遺骨や遺品が埋葬されている最も縁の深いお寺は弘経寺です。

短いけれど姫路城で幸せな時を過ごした千姫と忠刻、未亡人となった千姫を江戸に迎え、大切に守った実弟・家光。それぞれに生まれた時から定められていた運命を受け入れつつ、精一杯人間らしく、自分らしく生きようとしたのではという気がしますね。


ちなみに、以下の記事では千姫の弟である徳川家光の恋愛エピソードについて解説しています。正室との不仲や数多くの側室、そして若い頃の男色関係など、家光に関連する恋愛の話は数多く残されています。詳しくは以下の記事をご覧になってみて下さいね。

※参照:徳川家光の妻について解説。男性との恋愛エピソードも!?