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戦国時代で天下分け目の重要な戦いと言えば、1600年に徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とした西軍が戦った関ヶ原の戦いですよね。


日本中の様々な武将が集結した関ヶ原の戦いですが、その場所である不破郡関ケ原町は古代で最も有名な戦いが行われた場所としても知られている所です。


今回は、関ヶ原の戦いが行われた場所の概要やその詳細、かつてこの地で行われた2つの戦いについてご紹介します。

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関ヶ原の戦いが行われた場所はどこにあるのか。


戦国時代に限らず、合戦は元号か土地の名前で呼ばれることがほとんどです。
関ヶ原の戦いもその一つで、呼称である「関ヶ原」は土地の名前にあたります。

では、この「関ヶ原」とは一体どの場所にあるのでしょうか。


現在、関ヶ原古戦場跡が残っている場所は岐阜県にある「不破郡関ケ原町」というところです。
名前もそのまま残っているので大変分かりやすいですね。

当時の文献を紐解いていくと、南北朝時代に実際に行われた「青野原の戦い」と表記されているものもしばしば見つけますが、これはこの戦いの場所が関ヶ原と隣接しているために、このような表記が伝わった可能性が指摘されています。

また、この辺りには山岳が多いことから交通の要衝として知られ、東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関と並ぶ「三関」の1つである不破関があった事でも知られています。

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関ヶ原の戦いの場所「不破郡関ケ原町」とは?


関ヶ原の戦いが行われた岐阜県の不破郡関ケ原町について、もう少し詳しくご紹介します。


関ケ原町は岐阜県の南西、滋賀県との県境にある町です。この町には関ヶ原古戦場跡や石田三成が本陣を敷いた笹尾山、小早川秀秋が本陣を敷いた松尾山など、関ヶ原の戦いに関する数多くの名所がある事で知られています。

また、前述した「三関」の1つである不破関跡も、関ケ原町にある観光スポットとして知られています。この辺りの地域は古代日本の壬申の乱の舞台でもあり、また江戸時代には中山道の宿場町としても栄えるなど、歴史と大変縁の深い土地と言えるでしょう。


なお、正式な表記は「関原町」ではなく「関原町」です。真ん中の「ケ」の字が大きいのが正しい書き方です。


関ケ原町がある「不破郡」ですが、関ケ原町と垂井町の2つの町から構成されている岐阜県の最西端にある地域名です。不破郡を構成するもう1つの町である垂井町ですが、秀吉の軍師であった竹中半兵衛ゆかりの地として知られている場所です。

この辺りの地域は、戦国ファン、歴史ファンならぜひ一度は行ってみたい土地ですね。

この地域で行われた「2つの戦い」とは?


天下分け目の戦い」とも呼ばれる関ヶ原の戦い。

実は、この辺りの地域では過去にも2度、大きな戦いが行われた事がありました。


1つ目は672年に行われた「壬申の乱」です。これは大友皇子(弘文天皇、天智天皇の皇子)と大海人皇子(後の天武天皇)による戦いで、共に2万人以上の兵力を従えていた「古代日本における天下分け目の合戦」と言っても過言ではない戦いでした。

戦いは天武天皇の勝利に終わり、彼によって「日本」という国号が定められる事になります。


もう1つは、1338年1月に行われた「青野原の戦い」と呼ばれる合戦です。
この戦いは関ヶ原町に隣接している、現在の岐阜県大垣市で行われた南北朝時代の合戦で、南朝の名将である北畠顕家の上洛を、北朝の土岐頼遠が迎え撃ったものです。

戦いは南朝方の勝利に終わるもののその損害は激しく、その4ヶ月後に北畠顕家は討死。
南朝方は大打撃を受ける事になりました。

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この記事のまとめ


歴史ファンなら、一度は必ず耳にしたことがある関ヶ原。
今の岐阜県不破郡関ケ原町にあたる地域です。

この土地を調べてみると、そこは町全体が古代から近代に続く歴史の宝庫でした。
関ヶ原の戦いはもちろん、壬申の乱や北畠顕家、不破関や中山道など、歴史ファンなら1度は聞いた事がある言葉が満載ですよね。

これほど多くの武将が集まった土地は、日本全国を見ても稀なのではないでしょうか。
一度は、訪れてみたい場所ですよね。


なお、以下の記事では「関ヶ原の戦いにおける裏切り」というテーマについて解説しています。東軍から西軍へ裏切った武将についても紹介しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:関ヶ原の戦いの裏切りとその理由。東軍から西軍に裏切った武将とは?