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小学校で初めて歴史を学習すると、人の名前がたくさん出てきてめんどうだなと思いますよね。

しかも、出て来るのはなぜか男性ばかり。じつは歴史上、有名な女性の数はかなり少ないのですが、その中でも有名な女性の1人に清少納言と言われる人がいます。


そんな清少納言という女性について、年表や代表作の「枕草子」をふくめて、小学生向けに簡単にわかりやすくご紹介します。
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清少納言ってどんな人?小学生向けに解説!


清少納言は今から1000年ほど前、平安時代にいた女性です。

主に『枕草子(まくらのそうし)』という随筆(身のまわりのことを書いたもの)の作者として有名な歴史人物です。枕草子には「春は夜が明けるころがいい」とか「人がねずみの鳴き声のまねをすると、雀の子が踊るようにしてやって来るのがかわいい!」といった、今でも「わかるわかる」と言えることが書かれています。


また、清少納言は一条天皇の奥さんである定子(ていし)の教育係としても有名な人物です。
清少納言の実家は文学的にとても恵まれた家で、お父さんの清原元輔(きよはらの もとすけ)、そしておじいさんの清原深養父(きよはらの ふかやぶ)は、それぞれ有名な歌人でした。こうした家族のもと、清少納言は高い教育を受けていたのでしょう。天皇の奥さんの家庭教師としては適任だったわけです。

ちなみに、「清少納言」という名前は本名ではありません。
定子に仕えるときに名づけられた「仕事用の名前」です。

・清=清原家出身
・少納言=身内に少納言という位の者がいた


この2つが名前の由来だと考えられています。

本名は「諾子(なぎこ)」だったとも言われていますが、よくわかっていません。

清少納言の年表を簡単にご紹介。


それでは、清少納言の年表を小学生向けにわかりやすくご紹介します。

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・966年ごろ
正確な生まれ年はわかっていません。お父さんは清原元輔(きよはらのもとすけ)という有名な歌人で、朝廷に仕える貴族でした。といっても、藤原道長のようなトップに君臨するような地位ではなく、貴族の中では真ん中ぐらいの地位です。

※参照:藤原道長ってどんな人?年表を小学生にもわかるように解説!


・981年ごろ(15歳ごろ)
陸奥守(むつのかみ)・橘則光(たちばなののりみつ)(965年 – 1028年以後)と結婚し、翌年、橘則長(たちばなののりなが)(982年 – 1034年)を産みます。則長もまた歌人として名を残してします。しかし、ダンナさんとしだいにうまく行かなくなり、10年ほどで離婚してしまいます。


・991年ごろ(25歳ごろ)
親子ほど年の離れた藤原棟世(ふじわらのむねよ)と再婚し、のちに女流歌人として知られる子馬命婦(こまのみょうぶ)を産みます。


・993年(27歳ごろ)
関白(かんぱく)・藤原道隆(ふじわらのみちたか)から「一条天皇に嫁いだ娘・定子(ていし)の教育係になってほしい」と頼まれます。当時17歳だった定子は、天皇の奥さとしてふさわしい教養を身に着けなければいけない時期でした。

※参照:摂政、関白、太閤、太政大臣、征夷大将軍の違いをわかりやすく解説!


・995年(29歳ごろ)
定子の父・藤原道隆が亡くなり、道隆の弟・道長が力を持つようになります。道長は自分の娘・彰子(しょうし)を一条天皇に嫁がせ、一条天皇には定子・彰子と二人の妃がいる状態になります。

道長は定子の兄・伊周(これちか)や隆家(たかいえ)と権力争いを繰り広げ、その結果、道長が勝ち、敗れた伊周らは九州へと送られます。父・兄の後ろ盾をなくし、道長を恐れて人々は次第に定子のもとから去りました。清少納言は定子に仕え続けますが、「道長と通じている」とスパイ容疑をかけられてしまいます。清少納言は定子のもとを去り、ひっそりと暮らしました。『枕草子』はこのころに書き始められたようです。その後、定子から求められて清少納言はふたたび宮中に戻ります。


・1000年(34歳ごろ)
定子が難産のため、亡くなります。清少納言も宮仕えをやめ、宮中を去ります。その後の足取りはよくわかっていませんが、再婚相手の藤原棟世がいた摂津国(現在の大阪府の一部と兵庫県の一部)へ行ったといわれています。このころには『枕草子』が完成していたと思われます。


・1025年ごろ(59歳ごろ)
このころ、亡くなったのではないかといわれていますが、亡くなった場所などはわかっていません。

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以上が清少納言の年表ですが、よくわからないことが多いですよね。このころの女性は天皇の妃でもない限り、本名も生まれた年や亡くなった年も、まったく記録に残らないのです。

清少納言は『枕草子』のおかげで、本名ではありませんが名前が残ったわけです。
それでは、『枕草子』について、少しくわしく見てみましょう。

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枕草子の内容について簡単にわかりやすく解説


枕草子の内容についても簡単に見ていきましょう。

『枕草子』には300ほどの長短の文章がのっています。
そして、その内容は大きく2つに分かれます。

(1)自然や人間などを観察し、感じたこと
(2)定子に仕えるなかで見聞きしたこと



有名なのは「春はあけぼの」で始まる『枕草子』の最初にのっている文章です。
「春は、夜がほのぼのと明けようとするころがいい」という意味です。


このあと、

「夏は夜がいい」
「秋は夕暮れがいい」
「冬は早朝がいい」

このように、四季それぞれの好きな時間帯を挙げています。


また、定子のもとに仕え始めたころのことも記しています。

枕草子に書かれている事を簡単にご紹介すると「お仕えを始めたころ、気が引けることが多くて緊張で涙が出てしまいそうなほどだった」そうです。しかし、夜、定子と一緒に絵を見ているときに「着物の端から少し見える手が、とても美しい」と定子をほめたたえているあたり、緊張しているわりには冷静に観察していてすごいなぁと感心してしまいます。

『枕草子』のなかで、清少納言は定子のことをとにかく素晴らしい人とほめちぎっています。


それでは、枕草子はいつ何のために書かれたのかのでしょうか。
これについてはいろいろ説がありますが、最近出されている説をご紹介します。

『枕草子』が書かれた時期は2つに分かれ、1つは清少納言がスパイ容疑をかけられて宮仕えを辞めたときです。失意の中で、宮中での華やかな出来事について書き綴りはじめるのです。
その後、清少納言は宮中に呼び戻されますが、そのときに書きためられた『枕草子』の一部を定子にも披露したと思います。華やかだったころの美しい思い出が記された文章に、定子は慰められたことでしょう。

ところが、定子は難産が原因で亡くなってしまいます。わずか24歳です。
主を失った清少納言は、宮中を去ります。このときが2つ目の執筆時期にあたります。
定子の美しさや定子の兄・伊周が勢いのあったころの話、天皇や定子と夜中まで語り明かしたことなど、もう二度と返ってこない日々を思い出して書いたのでしょう。

最近では、『枕草子』は定子とその一族へなぐさめの意味を込めて書かれたのではないか、という説も出されています。

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この記事のまとめ


清少納言とはどんな人なのか、年表や枕草子を含めて小学生向けに簡単にご紹介しました。

清少納言がどんな時代に生き、どういう思いで『枕草子』を書いたか。そんなことに思いを馳せると、「ちょっと読んでみようかな」という気持ちになりますね。
原文で読むのはちょっと難しいですが、今は現代の言葉に直したものやマンガにもなっていて、気軽に楽しむことができますよ。

「着物は裾の色の重ね方がポイント」とか「甘いかき氷食べたい~」といった、平安時代のファッションやスイーツのこともわかり、今でいうところのブログに近いかもしれません。


なお、以下の記事では清少納言のお父さんや旦那さん、子供について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:清少納言の父親の清原元輔とは。2人の夫とその子供について