真田幸村(さなだ ゆきむら)という人物をご存知ですか?
近年はゲーム等に登場していて、名前を知っている人も多いかと思います。

この記事では、真田幸村がどんな人だったのかを解説した年表や、幸村が活躍した大坂の陣について、小学生向けにわかりやすく解説しています。

調べ学習や自由研究などの参考にしてみて下さい!

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真田幸村ってどんな人?本名は真田信繁?


大河ドラマ「真田丸」の主人公として活躍中の真田幸村(さなだ ゆきむら)ですが、一体どんな人だったのかと聞かれると、思うように答えられない方も多いのではないでしょうか。

真田幸村は、徳川家康が豊臣秀吉の子供、秀頼を攻めた「大坂の陣」で豊臣家につき活躍した武将です。この時、幸村が大坂城の南に作った砦(とりで)のことを「真田丸」と言い、そのままドラマのタイトルにもなってますね。

1615年の5月、幸村はわずか3500の兵で15万人以上の兵を率いていた徳川家康をあと一歩まで追い詰めました。結果としては家康を討ち取ることは出来ず、幸村はここで戦死します。しかし、その活躍はすぐに話題になり、幸村を主人公にした小説などが多く出されました。

また、彼の名前は一般的には幸村というものが知られていますが、本名は信繁(のぶしげ)といいます。幸村とは江戸時代に書かれた創作小説の「真田十勇士」で作られた名前です。「真田丸」では信繁の方で登場していますが、このページでは一般的に知られる「幸村」の名前でお送りしています。

真田幸村の年表をわかりやすく解説!


続いて、真田幸村の年表を小学生向けにわかりやすくご紹介したいと思います。

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・1567年(0歳)
信濃国(今の長野県)の武将、真田昌幸(まさゆき)の次男として生まれます。
幸村の父親・真田昌幸は、武田信玄、勝頼の親子に仕えていた武将でした。
また、幸村には1歳年上の真田信幸というお兄さんがいました。


・1575年(9歳)
長篠の戦いで武田勝頼が織田・徳川連合軍に敗北します。
またこのとき、昌幸の1番目と2番目の兄が戦死してしまいます。
これにより、昌幸が真田家を継ぐことになります。


・1582年(16歳)
武田家が織田、徳川連合軍から大打撃を受け、勝頼は自害(じがい)してしまいます。
幸村の父親、真田昌幸は織田家につきます。
しかし、信長が家臣(かしん)の明智光秀に本能寺の変にて討たれてしまいます。
これによって昌幸は上杉家→北条家→徳川家と、仕える主君を転々とします。


・1585年(19歳)
昌幸が徳川家をはなれ、再び越後国(今の新潟県)の上杉家につきます。
これによって、幸村は上杉家の人質として越後国へ送られます。
怒った家康は部下に昌幸を攻めさせますが、昌幸はこれを撃退します。


・1587年(21歳)
昌幸が豊臣秀吉に従います。
これによって、幸村は大坂城の秀吉のもとへ人質として送られます。


・1594年(28歳)
左衛門佐(さえもんのすけ)という官職をさずかります。


・1598年(32歳)
豊臣秀吉が病死します。


・1600年(34歳)
全国を東軍、西軍に分断した関ヶ原の戦いが起こります。
東軍が徳川家康、西軍が石田三成です。真田親子はどちらの軍に付くか話し合いました。
というのも、兄の信幸は家康の家臣の娘と結婚していたため、東軍に付くしかなかったのです。昌幸と幸村は石田三成と仲が良かったため、西軍に付きます。結果は東軍の勝利に終わります。西軍に付いていた昌幸と幸村は死罪を命じられてしまいます。しかし、兄の信幸と本多忠勝の必死のお願いにより九度山(くどやま)に流罪(るざい)で済みました。

※参照:真田信之と稲姫の子供まとめ!その後の真田家はどうなった?


・1611年(45歳)
父、昌幸が病死します。


・1614年(48歳)
大坂冬の陣が起こります。以下で詳しくご紹介します。


・1615年(49歳)
大坂夏の陣が起こります。幸村は華々しく活躍するも戦死してしまいます。
また、この戦いで豊臣家は滅亡します。
以下で詳しくご紹介します。

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真田幸村が活躍した「大坂の陣」って?


最後に、幸村が活躍した「大坂の陣」についてご紹介します。

大坂の陣は、徳川家康が大坂にいる豊臣秀吉の息子・秀頼を討てと命令してはじまった戦国時代最後の戦いです。1614年と1615年の2回に渡って行われ、それぞれ「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」と呼ばれています。


当時の豊臣家は大坂城のまわりを支配する力しか持っていませんでした。一方の徳川家は、日本全国の大名に命令するだけの力を持っています。そのため、豊臣家は大名を集めることができず、全国の浪人(どこかの大名に仕えていない武士のこと)を集め家康に対抗しようとします。

豊臣家が武将を集めているという知らせは、九度山(今の和歌山県にある山です)にいる幸村にも届きました。この知らせを受けた幸村は九度山を脱出し、息子の大助と大坂城に入りながら古くからの真田家の部下にも声がけをします。その後、徳川軍は幸村が大坂城を守るために建てた真田丸と呼ばれる砦(とりで)を攻めますが、幸村は鉄砲を上手く利用して、これを退けます。後に和議(戦を中断しましょうという話し合い)が成立し、大坂冬の陣は終わりを迎えます。
幸村は息子の大助とともに大坂城に残ります。

※参照:真田大助こと真田幸昌の生涯について。子孫や墓所はどこ?


一方の家康は、江戸幕府の支配を続けるため何としても豊臣家を滅ぼしたいと考えていました。1615年の2月には、徳川軍は再び大坂城を攻めるため、真田丸を破壊するとともに、幸村にこちらに寝返らないかと誘いました。しかし幸村はこの誘いに乗りませんでした。あくまで豊臣家のために戦った姿勢も、幸村の人気の原因の1つになっていると思います。


そして4月に、徳川軍が大坂城を攻めてきます。いわゆる「大坂夏の陣」です。

幸村は様々な作戦を立てて家康を後一歩まで追い詰めますが、神社で休息を取っていた所を敵の兵士に見つかってしまい、討ち取られてしまいました。49歳でした。
幸村はこうして亡くなってしまいましたが、家康に勇敢に立ち向かったその姿を、敵の武将が「日の本一の兵(つわもの)」と評価しました。

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この記事のまとめ


真田幸村ってどんな人?」というテーマで、幸村の年表や大坂の陣について小学生の方にもわかるように紹介させていただきました。

幸村は大坂夏の陣で亡くなりますが、その後なんと秀頼と薩摩(さつま、今の鹿児島県)へ逃げ延びたという説があります。幸村の生き様を知った後世の人が、彼に生きていてほしかったという気持ちの現れでしょう。

それを書いたのが、はじめのほうに述べた、幸村を始め猿飛佐助たちが活躍する「真田十勇士」です。幸村の活躍ぶりはこれらの情報を通じて、現在の私たちでさえあこがれる存在です。


ちなみに、幸村の最大の敵である徳川家康の年表については以下のページでご紹介しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:徳川家康の年表を簡単にまとめてみた。