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真田大助こと真田幸昌と言えば、真田幸村の子供の中で、唯一彼と運命を共にした人物として知られています。

若くして亡くなったその生涯は、一体どのようなものだったのでしょうか。


また、真田大助こと真田幸昌の子孫の存在や、その生存説からくる墓所などについてご紹介します。
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真田大助こと真田幸昌の生涯について


真田大助こと真田幸昌は紀伊国(現在の和歌山県)にある九度山で、真田幸村の長男として生まれました。

当時、真田幸村と、その父・昌幸は関ヶ原の戦いの処分で、九度山での謹慎処分に処せられていたのです。その中生まれた長男・大助は、幸村の父である昌幸の名前から、真田幸昌と名付けられました。

一般的に知られる「真田大助」とは通称です。


慶長19年(1614年)には、真田大助こと真田幸昌は、父の真田幸村と共に九度山を降り、大阪城に入ります。この年は大阪冬の陣の起こった年ですので、真田大助こと真田幸昌は幸村とともに大阪の陣に参加していたことが分かります。


翌年の大阪夏の陣では、大助は幸村と共に道明寺の戦いに参加し、多くの敵将を討ち取り、大功を挙げたとされています。

しかし、豊臣秀頼の和議の噂が広まると、その阻止と秀頼の見届けを幸村から命じられます。
大助は幸村に最後まで付き従うつもりでしたが、幸村の説得に応え、秀頼に付き従うこととなりました。

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その後大阪城が落城し、秀頼が自刃すると、真田大助も秀頼に殉じます。


この時、豊臣家の家臣であった速水守久は、特別な恩顧もなく若年であった真田大助に城の脱出を勧めますが、大助が拒絶をして死に至ったという話が残っています。

享年は13~16と伝えられており、その殉死の様子は講談で美談として語られています。


現在、大阪城の淀殿・豊臣秀頼自刃の地には淀殿、豊臣秀頼、大野治長と共に真田大助こと真田幸昌の名も記されており、その威光が感じられます。

真田大助の子孫はいるのか?墓所はどこに?


真田大助こと真田幸昌は享年も若く、出生も謹慎中の九度山であることから、史料が少ない人物です。ただ、妻がいたという記録はないため、彼の子孫はいないという事になります。


その一方で、真田大助こと真田幸昌は父と同じく、豊臣秀頼に付いて薩摩に落ち延びたという話も残っており、各地に生存伝説が残っているようです。

鹿児島県に伝わる一部の郷土史には、真田幸村や真田大助の子孫の存在が言及されています。


また、真田大助の墓所ですが、和歌山県九度山町にある善名称院(ぜんみょうしょういん)という真言宗の寺院にあります。

この寺院には真田大助こと真田幸昌の墓だけでなく、祖父である真田昌幸やその家臣一族の墓碑がある事でも知られています。

この善名称院には、1741年に真田昌幸が庵を置いた跡地と伝わる場所に建立され、その後、真田一族の講談が人気になるにつれ訪れる人も激増。現在では「真田宝物資料館」と呼ばれる施設も開かれています。


その一方で、秋田県大館市にある一心院にも、真田大助の墓があると伝わっています。

これは、大坂の陣を生き延び各地を流浪していた真田親子が、1625年から幸村の4女である御田姫の嫁ぎ先である佐竹家に庇護されていたという伝説が元になっているようです。


この御田姫は、真田幸村が豊臣秀次の娘を側室として産ませた人物と言われており、後に佐竹義重の4男である岩城宣隆の妻として、その嫡男である岩城重隆を出産した事でも知られています。

※参照:豊臣秀次が生きていれば豊臣政権はどうなったのか?

この記事のまとめ


今回は真田大助こと真田幸昌の生涯についてご紹介しました。

真田大助の生涯は惜しくも短いものとなってしまいましたが、父・幸村と同じく生存説が残っているため、その墓所や子孫を名乗る方が今でも存在するようです。

これは真田幸村と同じく、その力が認められていた証だと私は思いました。


※参照:真田大八(片倉守信)とは。姉の阿梅や仙台真田家について!

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