榊原康政は徳川四天王の一員として家康に仕え、その功績は現在でも讃えられています。

その徳川四天王には康政の他に酒井忠次、本多忠勝、井伊直政がいますが、本多忠勝とは同い年かつ幼い頃から家康に仕えるという共通点があります。似たような経歴を歩む二人の関係とはどのようなものだったのでしょうか。

また、康政は次男でありながら榊原家の家督を相続しているのですが、何故、兄が家督を相続しなかったのでしょうか。康政の兄である榊原清政の人物像と、子孫のその後についても迫ってみましょう。

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同じ「徳川四天王」榊原康政と本多忠勝の関係について


榊原康政と本多忠勝は1548年生まれの同い年です。

2人とも10代前半で家康に仕え、19歳のときには旗本先手役に選ばれています。旗本先手役とは先手として最前線で戦う役目であるとともに、即応兵力としていつでも戦に出陣できるよう、家康の居城に常駐する役割を担っていました。

また、康政と忠勝ともに姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど家康の主要な戦に出陣し、それぞれ武功をあげています。長篠の戦いでは共に戦い軍功を競うとともに、家康の首を目指して突撃を繰り返す「武田四天王」の一人、内藤昌豊らを退けることに成功しています。

※参照:内藤昌豊と信玄の関係は?長篠の戦いの活躍や子孫について!


このような点から、康政と忠勝はよきライバル関係にあったと言えそうですね。

1590年には長年の武功が認められ、康政は上野国館林10万石を、忠勝は上総夷隅郡大多喜10万石をそれぞれ与えられました。二人は出世のスピードも同じくらいであったと言えますね。

関ヶ原の戦いの後、武功をあげることがなかった康政は所領の増加がなく、功績を残した忠勝は5万石の増加を打診されていますが断り、代わりに次男・忠朝に与えられています。忠勝が所領増加を断ったのは、康政に所領の増加がなかったことを気遣ったからかもしれませんね。


ただし、榊原康政と本多忠勝の2人の仲が良かったことを「直接的に」示す史料は存在していません。しかし、同い年かつ長年家康に仕えるという立場から、互いに認め合う関係にあったのは間違いないと思います。言うならば「戦国の腐れ縁」といったところでしょうか。仲がよかったからこそ、家康の天下取りを支えることができたのだと思います。

※参照:本多忠勝が使用した槍「蜻蛉切」について。鎧兜も解説!

榊原康政の兄の榊原清政について。子孫はどうなった?


榊原康政には2歳年上の兄・榊原清政がいます。
兄がいるにもかかわらず、弟が家督を継いだのには何か理由があるはずですよね。

榊原清政は康政と同じく家康に仕えています。しかし、もともと病弱であり戦で大きな武功を挙げることはなく、それどころか名代として康政が出陣することも多かったようです。


そんな清政ですが、家康の長男・松平信康の傅役という重要な役職についています。

しかし、信康の母・築山殿が武田勝頼と通じていることを咎められた信康は、1579年に切腹を命じられます。信康の傅役であった清政はこのことに責任を感じ、職を辞して隠居したと伝えられています。責任を感じて隠居するとは、清政は実直な男と言え、そこが家康に評価されたのかもしれませんね。

弟の康政の死後、清政は家康から駿河有都郡に3000石を与えられました。また、病床にある清政を家康自らが見舞ったというエピソードも残っています。長男の教育をまかせたり、たびたび見舞ったりしたのは、家康が清政を信頼し、気にかけていたことの現われだと言えるでしょう。

清政の子・照久は大阪夏の陣の際に徳川方の要所である久能山にとどまるように指示され、家康の死後はその祭祀を執り行っています。このことからも、家康が康政だけでなく清政やその子孫にも気を配っていたことが読み取れます。

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榊原康政の子孫について。家名存続は大変だった!?


榊原康政の子には三人の男子と二人の女子、一人の養女がいます。

このうち長男の榊原忠政は、徳川家の外戚である大須賀家の養子に入っています。
次男の榊原忠長は父とともに上田合戦などの戦に参加していますが、榊原家の家督を相続する前に20歳の若さで亡くなります。


そして三男である榊原康勝は兄・忠長の死を受けて榊原家の家督を相続しています。
その康勝も大坂夏の陣の後に26歳の若さで亡くなり、榊原家には跡継ぎ問題が勃発します。

榊原康勝には庶子(後の榊原勝政)がいましたが、まだ若くて擁立できないということになり、榊原家は康政の直系の孫で長男の忠政の長男である大須賀忠次が養子に入ることで存続します。

しかし、8代目当主・榊原政岑(まさみね)が倹約令を無視した振る舞いをしたため徳川吉宗の怒りを買い、榊原家は越後高田に転封の処分を受けています。その後は大きな乱れなく家督を相続し、明治維新を迎えました。その際、14代目当主・榊原政敬の代では子爵に列せられています。


お家の危機を何度か迎えるものの、榊原康政の血は受け継がれ、子孫は繁栄しそれなりの地位を得たということですね。その背景には「徳川四天王の一人に数えられる榊原康政に始まる家を絶やしてはいけない」という力も働いたのではないかと思います。

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この記事のまとめ


榊原康政という人物を知るには、康政個人のエピソードだけではなく、同じ徳川四天王に列せられた本多忠勝や、兄である榊原清政やその子孫にも着目すると、より重層的に理解できるのではないでしょうか。

この記事の内容は以下のようにまとめられます。


・榊原康政と本多忠勝は同い年であり、同じような経歴を持ち、同じようなスピードで出世した。それゆえに仲がよかったと考えられる
・榊原康政には榊原清政という兄がいる。松平信康切腹により清政が隠居したため、康政が家督を継いだ
・榊原康政の子孫は明治維新後まで繁栄し、14代目で子爵に列せられた



戦国武将は主従関係だけでなく、同僚関係を追いかけてみるとまた違った魅力が発見できるかもしれませんね。また、戦国時代には「四天王」と呼ばれる人が多くいますが、その子孫の繁栄状況を比較するのもおもしろいのではないかと思います。以下の記事では、榊原康政を含めた徳川四天王について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:徳川四天王とは?その後や子孫の存在についても解説!