千利休と言えば、豊臣秀吉に命じられて切腹という形で最後を迎えたことは有名ですよね。
でも実は、あの利休切腹の黒幕が石田三成であったとする説があるのをご存知ですか?

共に天下人に仕えた二人。
その間に一体何があったのでしょう…?

そこで今回は、千利休の最後と石田三成の関わりについて迫ります!

また、茶道を嗜む者が「利休の最後」と聞いて必ず思い浮かべるであろう「利休忌」についてもご紹介します。

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天下一の茶人・千利休。その最後とは?


千利休の最後はどのようなものだったのでしょうか。

秀吉に切腹を命じられた事により、利休は最後を迎えます。
しかしその原因は諸説あり、今に至るまでハッキリとした理由は分かっていないようです。


大河ドラマ「真田丸」では、利休が北条に物資を送ったという事が言及されてましたが、他にも茶道に対する考え方の違いや、利休の後ろ盾であった豊臣秀長の死去などがその原因として挙げられています。


こうした要因が複数重なったのでしょうか。1591年、利休は秀吉の怒りを買い、突如堺の町に蟄居を命じられます。この時点で秀吉は利休を切腹させようとは考えておらず、また「利休七哲」などの弟子たちが詫びて秀吉に許しを乞うよう説得したものの、利休は秀吉に頭を下げる事がなかったため、これを機に秀吉が利休へ切腹を命じたという説があります。

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追記:

「真田丸」では、千利休が北条に物資を送っていた場面が出てきますが、史実では利休と北条の関係を示すエピソードがある訳ではありません。ただ、千利休は茶人であると同時に堺の商人でもあります。また、小田原征伐の時期に利休と秀吉の関係は悪くなっていたのも事実です。

真田丸におけるこのエピソードは、「利休の商人としての側面」と「悪化していた利休と秀吉の関係」の2つを、「真田丸」の原作者である三谷幸喜さんが上手く繋ぎ合わせたものだと、個人的には考えています。

以下の記事では、利休と秀吉の関係悪化の一因となったと考えられる「山上宗二」という人物についてご紹介しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さい。

※参照:千利休の弟子について。利休七哲のメンバーや山上宗二とは?

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この年の4月21日、利休は切腹の命を伝えに来た使者に「茶の湯の支度ができております」と告げ、最後の茶を点て切腹します。

その際秀吉は、利休の弟子であった大名たちが師の身柄を奪い返す事を危惧したと言われており、上杉景勝に命じて利休の屋敷を取り囲ませたと言われています。


最後まで茶人としての誇りを失わなかった利休は、こうして69歳の生涯を終えました。
利休の首は、先に磔にされていた大徳寺の木像に踏ませる形で晒されたと言われています。

※参照:千利休の切腹の理由を7つまとめてみた。

石田三成は千利休の最後の黒幕だったのか?


前述したのは一般的に知られている千利休の最期ですが、彼の切腹にはあの石田三成を黒幕とする説があり、度々その真意を問う物議が醸されています。

その内容とは、当時豊臣政権下で家臣たちが石田三成派と徳川家康派に分かれており、その権力闘争の中で石田三成が家康派の利休を謀略に嵌め切腹に追いやったとする説です。


秀吉の側近としてのし上がろうとする三成にとって、秀吉の政治顧問的な存在であった利休は、目の上のタンコブだったのではないでしょうか。

元来、数多くの武将や大名から慕われていた利休を危険因子として危惧していた三成は利休を嫌っていたとされ、思想の違いから利休と対立し始めていた秀吉に「利休をこのまま泳がせておくのは危険である」と度々それとなく進言していたのでは?とも考えられます。


ただ、関ヶ原の合戦後、石田三成の遺体を引き取り手厚く供養したのは、利休と親睦の深かった大徳寺である点も見逃せません。三成と利休の仲が悪かったとするならば、果たして大徳寺が進んで三成の亡骸を引き取るだろうかとも考えられるため、三成が利休の最後にどの程度関わったのかは謎のままです。

また、三成が秀吉に絶対なる忠義を尽くしていたことは周知の事実であり、豊臣家の安泰を誰よりも望んでいたのは間違いありません。そのため、秀吉の悪評が蔓延するのを案じて、三成があえて利休の最後の責任者として泥をかぶったという考えもあり、こちらもその真偽はやはり定かではありません。

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千利休の最後に関係する行事「利休忌」とは?


千利休の最後を語る以上、利休忌についても触れておきましょう。

利休忌とは、千利休の茶道の教えを学ぶ門弟の間で行われる利休を偲ぶ行事のことです。

そもそも「〜忌」という言葉は、亡くなった故人を偲ぶ法要という意味があります。
「1回忌」「3回忌」といった言葉を、どこかで聞いた事がある方も多いのではないかと思います。


表千家では毎年の3月27日に、裏千家と武者小路千家では毎年の28日に利休忌を行う事になっているのですが、この時期は千利休が最後を迎えた旧暦の2月28日に該当しています。

利休忌の当日は利休像を掲げ、その流れを汲む門弟たちが茶湯をし、茶や利休が好んだとされる菜の花を供えるなどして、千家茶道の開祖となった千利休を供養しているそうです。
その後は「七事式」と呼ばれる、いつもの活動とは少し違った形のお稽古事が行われるようになっています。

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この記事のまとめ


豊臣秀吉に仕え、その政治に大きく関わった千利休。最終的には秀吉との対立から切腹に至りますが、その最期は茶人としての誇りを貫いたものでした。

この千利休の最後の黒幕として挙げられるのが石田三成ですが、彼を利休切腹の黒幕説を立証する確かな資料はなく、その真意も人々の想像の域であるとしか言えません。

そして、現在の千家茶道では、開祖である利休を偲ぶ「利休忌」が彼の命日に行われています。


ちなみに、千利休の2人の妻やその間の子供について以下の記事で解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さい。

※参照:千利休の2人の妻とその子供について解説!