千利休と言えば、現代に伝わる茶の湯を大成させた人物。

また織田信長・豊臣秀吉など天下統一を成さんと奔走した武将たちに仕え、その才能や美的センスをいかんなく発揮した人物としても有名です。

そんな利休の弟子にはどのような人たちがいたのでしょうか?

利休の高弟として知られる山上宗二とはどんな人物なのか、また弟子たちとは別の利休七哲とは何だったのかも合わせて見ていきたいと思います。

スポンサードリンク

茶道の大成者である千利休に弟子入りした人物たち


茶道界のカリスマ・千利休には数多くの弟子がいたとされています。

以下で解説する高弟の山上宗二や利休七哲と呼ばれる人達をはじめ、かの有名な前田利家や信長の弟である織田有楽斎、のちに娘婿となる、千紹二や万代屋宗安(堺の富商で秀吉の茶頭八人衆の一人)などがいます。

その誰もが織田信長同様、茶の湯に熱心だった豊臣秀吉に感化されて、茶の湯好きな大名や武将が競って利休に弟子入りしたと言われています。


こうした弟子の中で、当時から有名だった7人の弟子のことを「利休七哲」と呼ぶ事があります。
どのような人達だったのか、1人1人見ていきましょう。


・利休七哲の筆頭である蒲生氏郷
利休の死後彼の息子である少庵を保護し、結果的に現在の表千家を守った人物とされています。


・細川ガラシャの夫として有名な細川忠興(細川三斎)
武将としても有名ですが、実は茶道の流派三斎流の開祖ともなった人物です。


・利休茶道を継承した古田重然(古田織部)
茶器製作や造園・建築などにおいて織部好みという一大流行をもたらした人物。


・利休が一番懇意にし、何度も書簡を交わした芝山宗綱(芝山監物)
蒲生氏郷、細川忠興と共に茶湯に優れた人物として利休門三人衆に数えられた武将の一人です。


・茶人としても名を馳せた戦国武将の瀬田正忠(瀬田伊繁)
のちにさらし茶巾という点前を考案した人物として知られています。


・茶道を極めたキリシタン大名・高山長房(高山右近・重友)
秀吉のキリスト教禁止後も、利休が彼のために茶を点てもてなすほど認められていた人物です。


・牧村利貞
利休が織田信長に仕えていた頃からの弟子と言われている人物です。


この中で、特に優れていいた蒲生氏郷・細川忠興・芝山宗綱の三人は「利休門三人衆」とも呼ばれています。


また、これとは別に、織田有楽斎や利休の嫡男である千道安、荒木村重を加えて「利休十哲」と呼ばれることもあります。ただし、この利休十哲は後世呼ばれるようになった名称であり、千道安を除いて前田利家の嫡男である利長が入ったり、あるいは金森長近や有馬豊氏が入るなど、そのメンバーは厳密には決まっていないようです。

※参照:千利休の2人の妻とその子供について解説!千道安とは?

スポンサードリンク

千利休の高弟、山上宗二とは?


こうした千利休の弟子たちの中で、千利休に20年間も茶の湯を学んだのが山上宗二です。

山上宗二は20年間利休のもとで茶の湯を学んだ高弟中の高弟で、何度も利休に同行して茶会に出席したとの記述も残されています。
茶人であると共に、堺の豪商としての一面もありました。


また、山上宗二は「山上宗二記」という資料の作者でもあり、当時の堺衆の茶の湯の歴史を物語る重要な基本史料となっています。

山上宗二記には、主に茶道具の評価や利用する際の心得について記載されているのですが、その中にある「一期に一度の会と思って亭主を畏敬すべし」の言葉は、四文字熟語として有名なかの一期一会の語源ともなった一文として有名です。

宗二はこの中で「利休は山を谷に、西を東に変えるかのように茶湯の決まり事を破り、茶道具を自由に変えてしまったが、彼が優れた人物であったからこそ面白い結果となった」と記述しており、彼がどれほど師である利休を認めていたのかがよく分かります。


宗二は利休と一緒に豊臣秀吉に仕えていましたが、かなりの毒舌家であったため茶道に関する秀吉の行い(茶の湯を見世物にしたり、大茶会に出席できない者は今後茶湯に携わってはいけないと御触れを出したりしたこと)に対して批判的な言葉を発したため追放されてしまいます。

その後は高野山に逃れたり前田利家に仕えたりもしながら、最終的には豊臣家と敵対していた小田原にある北条氏の元に下ります。


山上宗二の最後は悲劇的なものでした。1590年、秀吉が行った小田原征伐の際に宗二は利休を介して秀吉と面会して許されます。しかし、かつて茶道を教えていた北条幻庵への忠義を貫いたことが秀吉の怒りを買い、耳と鼻をそがれた上で打ち首に・・・46歳の生涯を閉じました。

その道を極めようと思えば、必ずと言ってもいいほど権力者との争いは免れないのでしょうか。
戦国時代を生き抜くのは、茶人であっても難しいんだなと実感します。

スポンサードリンク

この記事のまとめ


茶の湯に熱心だった豊臣秀吉に感化されて、各国の大名や武将たちが競って千利休に弟子入りしました。その中には前田利家などの有力大名の名前をも含まれていました。

こうした千利休の弟子の中で特に有名なのが「利休七哲」と呼ばれる人達で、その中には蒲生氏郷や細川忠興などすでに武将として有名な人物たちも含まれています。

また、千利休の高弟でもある山上宗二は、利休茶道の極意を皆伝した人物です。その一方で、利休に引けをとらない強者であったことが秀吉に対する批判的な態度からよく分かります。


ちなみに、以下の記事では千利休の最後について解説しています。
興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:千利休の最後について解説。黒幕は石田三成?利休忌とは?