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あなたは大野治長という武将をご存知ですか?

秀吉亡きあと、とりわけ関ケ原の合戦以後の豊臣家を屋台骨として支えた武将として知られている人物です。大坂の陣で滅亡するまで、豊臣家を最後まで支え続けた大野治長とはどのような武将だったのでしょうか。

大野治長の大坂の陣における動向や、茶々(淀殿)との関係にも触れながらご紹介します。
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大野治長がどんな武将だったのかをわかりやすく解説


まずは大野治長がどんな武将だったのか、簡単に見てみましょう。

大野治長は、1569年に丹後国(現在の京都府北部)で産まれたと言われています。ただ治長の出身を尾張国(現在の愛知県)とする説もあり、大坂の陣で活躍した毛利勝永と同郷だとも言われています。

治長の父は大野定長、そして母の大蔵卿局は、もとは浅井長政に嫁いだ織田信長の妹・お市の方に仕えていたと言われている女性で、後にその娘の茶々(淀殿)の乳母として、彼女の人生を支えた事で知られる女性です。
治長はこの二人の長男として産まれており、弟には大野治房、治胤(道犬)がいます。

※参照:大蔵卿局とは?茶々(淀殿)との関係や大坂の陣での交渉について


本能寺の変ののち、秀吉が柴田勝家をほろぼすと、茶々は秀吉の側室となります。このとき大蔵卿局も茶々に従い豊臣家に仕える事になりました。以後、大野治長は3000石の馬廻衆として秀吉に仕え、1589年には和泉国(現在の大阪府南部)の佐野と丹後の大野合わせて1万石の大名となります。この時、丹後国で大野という土地を与えられた事が、治長の出身地がこの地であると伝わった発端になったようです。

秀吉の死後は、秀頼の側近として警護二番衆の隊長として仕えるものの、1599年に徳川家康暗殺疑惑事件の容疑者として、浅野長政らとともに下総・結城に流罪となりました。しかし、翌年の関ケ原の戦いでは徳川家康に味方して東軍に加勢し、これにより罪を許され1万5000石に加増されています。合戦後、豊臣家に逆らうつもりはないという旨の家康の手紙を手に大坂入りした大野治長は、江戸には帰らず、そのまま豊臣家に復帰しています。

そして1614年に家老の片桐且元が豊臣家を追放されると、大野治長が豊臣家を主導するようになります。大野治長は、豊臣家の存続には当面徳川家に恭順するべきとして和平派を牽引しますが、豊臣家内部ではしだいに徳川と決戦すべきだという主戦派が台頭し、大坂の陣が勃発する事態となります。そして最終的には、大野治長自身も茶々と秀頼とともに大坂城内にて自刃するという最期を迎えます。

武将としての散り際は徳川からも評価をされた大野治長ですが、千利休の弟子であった古田織部から茶道を学んでおり、すぐれた茶人としての一面ももっていました。

※参照:千利休の弟子について。利休七哲のメンバーや山上宗二とは?

大坂の陣で大野治長が取った行動とは?


大坂の陣における大野治長の動向についても見てみましょう。

関ヶ原の戦いでは東軍に味方をした大野治長でしたが、1614年の大坂冬の陣では、豊臣家の首班の一人として行動しています。

もともと徳川と雌雄を決することにはリスクが大きいと感じ、和平をむすぶ中で活路を見出す方針だった大野治長は、淀殿の命を受けて、織田有楽斎とともに徳川家と和睦することに奔走しこれに成功しています。しかし冬の陣の後、徳川方は和睦の条件であった惣堀(外堀)を埋め立てるのですが、さらに内堀までを一気に埋め立てられてしまいます。

これに対して徳川方への反感、さらには大野治長をはじめとする和平派への反発から主戦派の盛り返しがあり、大坂夏の陣が起こります。この間、治長は仲違いした弟に城内で襲われけがをしています。すでに治長ら和平派は発言力を失っていました。

しかし裸同然となった大坂城にもはや防御力はなく、勝敗が誰の目にも明らかになると、大野治長は一計を案じ、秀頼正室で将軍・秀忠の娘である千姫を脱出させたうえで、自らの命と引き換えに秀頼と淀殿の助命を嘆願しました。しかし、この願いはかなわず、大野治長は秀頼、茶々、大蔵卿局らとともに大阪城の山里曲輪にて自刃して果てています。

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大野治長と茶々の(不適切な?)関係について解説!


ところで、大野治長と言えば茶々(淀殿)との関係が話題にあがる事があります。大野治長の母である大蔵卿局は、茶々の乳母でしたので、ふたりは乳兄妹という間柄になります。しかし、実はこの2人は密通(不倫)をしているのではないか、という噂が当時から存在していました。

そのため、秀頼の父親は実は大野治長なのではないか、という説もあります。大のつく女好きであった秀吉は、正室のおねをはじめ数多くの女性と関係を持ちながら、一人として実子を授かってはいませんでした。にもかかわらず、ひとり茶々だけが二度も身ごもったことが不自然と考えられるからです。

これはもちろん、確証のない俗説ですが、根も葉もない噂で終わらないそれなりの理由がありました。一つには、秀頼の身長です。小柄な秀吉に対し、大野治長と秀頼はともに高身長でした。また、茶々にとっても大蔵卿局にとっても、秀吉の子を授かることは、この時代を生きるためにぜひとも必要だったと考えられます。

さらに秀吉の年齢です。秀頼が生まれたとき秀吉は57歳になっていた事からも、大野治長と茶々は不適切な関係にあったのでは?とも言われています。今となっては確かめようもない事かもしれませんが、研究が進めば新しい事実が発見される…事もあるかもしれませんね。

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この記事のまとめ


大野治長がどんな武将だったのかを、大坂の陣での動向や茶々(淀殿)との関係に触れながらご紹介しました。

大野治長は、その出自から豊臣家の奥を中心とした権勢家の一面があったことは否めません。ただ、豊臣家を主導したとはいえ、すでに天下の実権は徳川にあり、味方となる大名もほとんどいないなかで、最後まで豊臣家と運命をともにした大野治長はやはり忠義の士だということができると思います。

なお、以下の記事では大坂の陣における淀殿の動向について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:淀殿の大坂の陣における行動やその最後。生存説が2つも!?