%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2016_10_29_14_10
小野政次(小野道好)という武将をご存知ですか?

2017年のNHK大河「おんな城主直虎」のヒロイン・井伊直虎に仕えた家老でありながら、父・小野政直と親子2代にわたって井伊家を大変苦しめた人物です。

一体どんな人だったのでしょうか。
父、小野政直や同じ名字である小野小町との関係も交えながらご紹介します!
スポンサードリンク

小野政次(小野道好)とはどんな人だったのでしょう?


まずは小野政次がどんな人だったのかを、簡単にご紹介します。

小野政次(小野道好とも、以降は政次で統一します)は遠江国井伊谷(静岡県浜松市)の城主・井伊家の筆頭家老を務めていた人物です。しかし、彼はただ主君に忠実に仕える人物ではありませんでした…。

1560年5月、井伊家は主家である駿河の今川義元の先鋒として織田信長と戦いますが、思いもよらない奇襲攻撃を受け、当主の今川義元は討ち死にし、井伊家も当主・井伊直盛が戦死してしまいます。この直盛の死により、婿養子の井伊直親が井伊家の当主となり、翌年には長男・虎松(井伊直政)が誕生します。

この時、小野政次は井伊家の中で己の実験を強化する事を考え、行動に移します。同年12月、小野政次は井伊家中で勢力を伸ばしていた井伊一族の奥山朝利を殺害。そしてその2年後、政次は主家の今川氏真に「井伊家当主の直親が徳川家康と組んで今川家に謀反を企んでいる」と偽りの密告!これを聞いて怒った今川氏真は、釈明させるために井伊直親を駿府城へ呼びつけますが、直親は駿府城へ向かう道中の掛川城付近で、今川方の掛川城主・朝比奈泰朝の手勢に囲まれ、討ち取られてしまいます。

※参照:井伊直親ってどんな人?妻や今川氏真に討たれた背景とは?


この小野政次の偽りの密告によって、井伊家の後継ぎの男子は幼い虎松(井伊直政)だけとなり、しかも、今川氏真がしつこく虎松の命を狙ったため、虎松は三河の鳳来寺に身を隠し、井伊家は当主不在の状態になってしまいます。そこで、井伊一族は話合い、出家していた井伊直盛の娘・次郎法師が還俗して直虎と名乗り、その後を継ぎ井伊谷城の城主となりました。

小野政次の企みがなければ、おんな城主直虎は存在しなかったのかもしれませんね~。

そして、直虎が井伊谷城の女城主となってからも、小野政次の企みは続きます!あくまでも井伊家を滅ぼし、井伊谷城を乗っ取りたい政次は、今度は商人・祝田禰宜と手を組んで農民たちを煽って、今川氏真に対して徳政令を求める訴えを起こさせます。

1566年、今川氏真は井伊直虎に徳政令を公布するよう命じます。徳政令を公布しなければ農民たちが一揆をおこし、公布すれば井伊家の財政は破綻するという難しい状況のなか、1568年11月、井伊直虎はついに徳政令を公布する必要に追い込まれ、今川氏真によって井伊谷の地頭職の地位も解かれてしまいます。そして、今川氏真は井伊谷の直接支配を行なうため、小野政次を井伊谷の代官に命じました。

こうして、井伊谷城乗っ取りを企んでいた小野政次は、ついに念願の地位を手に入れます!

しかし、その栄光もほんの束の間。

桶狭間の戦い以降、没落の一途をたどっていた主家の今川家の領地に甲斐の武田信玄が徳川家康と組んで攻め込み、このチャンスに乗じて、井伊谷3人衆(近藤康用、鈴木重時、菅沼忠久)が今川家に反逆!徳川家康の道案内をして遠江へと引き入れます。

家康の軍勢に井伊谷城を攻められた小野政次は、城を捨て逃走しますが捕らえられ、1569年4月7日に偽りの密告をした罪で処刑されました。

小野政次の野望はこうして潰えたのです。
でも実は、政次の父、小野政直も彼と同じような事をしていたのです・・・

スポンサードリンク

小野政次の父、小野政直のやったことについて解説!


そもそも、政次の父・小野政直とはどんな人だったのでしょうか?

1542年、井伊家は今川家の配下として、新興勢力の織田家を退けるために三河の田原城攻めに参戦しますが、この戦いで、当主の井伊直宗は討ち死にし、直宗の子・井伊直盛が後を継ぎ、井伊家の当主となります。
ところが、直盛は後継ぎとなる息子に恵まれなかったので、父の弟・直満の長男の亀之丞(のちの井伊直親)と自分の娘(後の井伊直虎)を結婚させて、亀之丞を婿養子にして井伊家の次の当主にしようと考えます。

ここで横ヤリを入れたのが小野政直でした。政直は、亀之丞と直盛の娘(直虎)が結婚して、井伊家の後継ぎとなる計画を阻止しようとします。1544年12月、政直は今川義元に「亀之丞の父・直満とその弟・直義は、甲斐の武田信虎と内通している」という偽りの密告を行い、その結果、二人は義元によって自害に追い込まれてしまいます。

そして当時、9才だった亀之丞の命も危うくなり、長野の松源寺に身を隠し、生死不明にしたために、亀之丞と結婚するはずだった直虎も出家し次郎法師と名乗り、生涯独身を貫くことになります。小野政直の企みがなければ、直虎が出家し、次郎法師となることはなかった訳ですね。

その10年後の1554年、小野政直は病気でなくなります。亀之丞が井伊谷に戻り、井伊直親と名乗る1年前の事でした。

スポンサードリンク

小野政次は小野小町の子孫だった!?


ここまで見てくると、この小野政直、政次親子はまるで時代劇に登場する絵に描いたような悪家老!って感じですが、そこには、複雑に屈折した心模様もあったようです。

実は小野家は、井伊家に昔から仕えていた家臣ではなく、戦国時代になってから駿河の今川家が遠江に攻め入って井伊家を屈服させた時からの家臣なのです。この時、小野家は井伊家の支配下に入る事になると同時に、今川家にとっては外様にあたる井伊家が反逆しないように目を光らせ、また不穏な動きがあれば主家に秘かに知らせるといった役割があった訳ですね。

しかも、小野家は歴史ある名門の家柄でした!
遣隋使として随の皇帝、煬帝に謁見した事で知られる小野妹子や、平安時代初期の有名な女流歌人、小野小町は、小野政直、政次親子にとってはご先祖さまに当たるのです。

歴史の波の中で、小野家を取り巻く環境もさまざまにかわり、今川家の臣下になり、そこからさらに井伊家の家老となった訳ですが、名門の今川家はともかく、井伊家は小野家から見るとあきらかに格下の家柄で、小野政直、政次親子は井伊家を主君として認めることはプライドが許さず、どうにかして井伊家を滅ぼして井伊谷城の城主になりたい、という野望に燃えたのかもしれません。

あるいは、そういう野望を持たなければ、自分の立場がみじめで耐えられなかったのかも~?

いくら、先祖が凄かったとはいえ、ゆがんだ野望なワケですが…

スポンサードリンク

今回のまとめ


小野政次がどんな人だったのかを、父の小野政直や小野家の歴史も交えながらご紹介しました。

小野政次は父・政直の後を継ぎ、井伊家の筆頭家老の職につきますが、主家の今川氏真に偽りの密告をして、主君である井伊直虎を窮地に陥れ、ついに井伊谷城の城代の地位を手に入れます。しかし、それも束の間、捕らえられ、偽りの密告の罪で処刑されてしまいました。

また、政次の父の小野政直も井伊家の家老として仕える一方、今川家に主君の一族の密告を行うといった事を行っています。実は小野家は飛鳥時代から続く由緒ある名門一族で、小野妹子や小野小町はこの親子のご先祖様にあたります。


小野政直、政次親子といい、女城主となった井伊直虎といい、個人の自由な生き方など選べない時代に、さまざまな苦悩を抱えながら生き抜いた人生だったのかもしれませんね。

※参照:おんな城主直虎の原作やあらすじについて。直虎の城はどこ?