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大久保利通は薩摩藩(いまの鹿児島県)出身で、幕末から明治維新の時代に活躍した政治家です。今の日本という国の形を作り上げた、非常に優れた政治家だった大久保利通ですが、一体どのような人物だったのでしょうか。

このページでは、大久保利通の年表や、親友でもあった西郷隆盛との関係をふくめて、小学生向けにわかりやすくご紹介します。
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大久保利通ってどんな人?小学生向けにわかりやすく解説!


まずは大久保利通はどんな人だったのかを、簡単に見てみましょう。

大久保利通を一言でいうと、すぐれた政治家であるといえます。
薩摩藩の下級藩士の家に生まれた大久保利通は、幕末、殿様の信頼をえて西郷隆盛とともに薩摩藩をリードし、幕府をたおすために朝廷への働きかけなどを行いました。

明治時代になると、大名の土地と人民を朝廷に返す「版籍奉還」(はんせきほうかん)や、江戸時代に日本中にあった藩をやめて府や県を置く「廃藩置県」(はいはんちけん)などの政策をつぎつぎと実施しました。また、明治4年には大蔵卿(いまの財務大臣)となり、後に日本ではじめての内閣総理大臣となる伊藤博文などと一緒に「岩倉使節団」に参加して、アメリカやヨーロッパを見学しています。

帰国した利通は、幼なじみでもあった西郷隆盛が、韓国を武力で開国させようとする「征韓論」を主張していることを知ります。しかし、外国を自分の目で見てきた大久保利通はこれに反対し、西郷隆盛と征韓論を止めるために手を尽くします。しかし、結果として西郷隆盛は西南戦争をおこし、大久保利通も翌年、志半ばで暗殺という最期を迎えることになりました。

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大久保利通の年表を小学生向けにわかりやすく解説!


大久保利通の年表を、小学生にもわかりやすいよう簡単にまとめてみました。


・1830年(0歳)
薩摩国(今の鹿児島県)で生まれました。

・1853年(23歳)
薩摩藩の殿様・島津斉彬(しまづ・なりあきら)に仕えます。

・1858年(28歳)
斉彬が突然病死し、新しい殿様・島津忠義の父である久光が実権をにぎります。

・1861年(31歳)
久光の信頼を得た利通は、御小納戸役(おこなんどやく)という藩の重役に抜擢されます。

・1862年(32歳)
久光とともに京都にのぼり、朝廷を動かして、幕政改革を促します。
利通は御側役という久光の側近に抜擢されます。

・1867年(37歳)
薩摩は長州とともに倒幕をめざしましたが、徳川慶喜による大政奉還が実現したため、武力倒幕はできませんでした。
王政復古を宣言する小御所会議では、利通も参加し、徳川勢力の排除に成功しました。
※参照:徳川慶喜ってどんな人?年表や大政奉還を小学生向けに解説!

・1869年(39歳)
明治政府の参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県を実施します。

・1871年(41歳)
大蔵卿に就任したのち、岩倉使節団の副使として1年半にわたりアメリカ、ヨーロッパを見学します。

・1873年(43歳)
帰国後、内政に専念することを主張し、征韓論を退けます。西郷隆盛らが政府から去りました。
内務省を設置、自ら内務卿に就任すると学制、地租改正、徴兵制などの政策を行います。

・1877年(47歳)
西南戦争が発生、京都にて政府軍の指揮にあたりました。

・1878年(48歳)
石川県士族の島田一郎ら6名により暗殺され死去しました。

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強い日本の国づくりをめざした大久保利通でしたが、盟友・西郷隆盛とは別の形で士族の不満という大きなうねりに引き込まれ最期を迎えました。

大久保利通と西郷隆盛の関係は、本当のところどうだったのでしょうか。
以下で一緒に考えてみましょう。

大久保利通と西郷隆盛の関係とは?


大久保利通は、西郷隆盛と同じ町内(現在の鹿児島市)で幼少期を送りました。
生まれたのは大久保が1830年、西郷が1828年。
この2人は、子供の頃からの遊び仲間だったのです。

若い頃に参加していた精忠組というグループでも二人は一緒でした。精忠組のリーダーでもあった西郷隆盛を敬い、押し立てていたのが幕末期の利通の姿と言えるでしょう。

江戸幕府との戦いにおいても、二人は薩摩藩の中心人物として大きな役割をはたします。

そんな2人に政治的な食い違いが生まれるのは、明治になってからと言われています。
結果的に西郷隆盛は大久保利通に敗れ、ふるさとである鹿児島へと帰ってしまいます。

やがて1877年、西郷隆盛は西南戦争を起こします。利通は、はじめ西南戦争に西郷隆盛は関係ないと見ていましたが、西郷隆盛が加わっていると知ると、自ら西郷隆盛との会談を希望します。しかし政府は危険だとしてはこれを許しませんでした。西南戦争で隆盛が亡くなった事を聞いた利通は我を失い、部屋の中をぐるぐると歩き回ったと言います。

そして1878年、大久保利通も亡くなります。

その亡骸は、西郷隆盛からの手紙と、出しそびれた西郷隆盛宛の手紙をもっていたそうです。政治的な意見は違っても、利通は西郷隆盛を尊敬し、信頼していたようですね。

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この記事のまとめ


大久保利通がどんな人だったのかを小学生向けにわかりやすく解説しました。

利通は、純粋に国の将来を考え、冷静に政策を実行していたようですね。もし暗殺されず長生きしていたら、どんな日本を作ったのでしょうか・・・?考えずにはいられません。

一方、西南戦争で西郷隆盛と戦ったことから地元の鹿児島からは評判が良くありませんでした。大久保の銅像が鹿児島に建てられたのは、死後100年以上後の1979年の時でした。

こうした色々な角度で利通の人生を見直すと、彼のまた違った一面が見えてくるかもしれませんね。